より近い海(2)

 言われたとおりにした。右腕にできた傷口を、大事なものをひた隠しにするようにかさぶたが塞いでいる。怜美先輩は顔を眉根を寄せながら、じっと腕を見ている。照れくさくなって、


「何か言ってください」

「かわいそうに……翔太のせいで、そんな傷をつけてしまったのね」


 怜美先輩の言い分は分かる。私に、はたから見れば自殺の跡のような傷跡がついているのだから。社会的に見ても、それをけしかけたのが、翔太君ではないとは言い切れない。


「それは誤解です。腕を切ったのは私の意志だから」


 私は本心を言った。目をつぶってかぶりを振る怜美先輩。


「澄香ちゃんにあの場所を教えて、誘ったのは翔太だよ。そもそもあそこは立入禁止の場所なの。誰も入ってはいけないところ」


 と怜美先輩はやや語勢を強めて言い、腕を組んだ。彼女の頭に、やんちゃな翔太君が暴れまわっているのだろうか。


「翔太君は、何も考えていないわけじゃありません。好きでやんちゃをしてるわけじゃない」


 自分でも意識しないうちに言葉が出て、それがなにやら彼の保護者然とした物言いだと気づく。きまりが悪くて、私は彼の肉親である怜美先輩から目をそらした。


「悪いけど言わせてもらう。それは澄香ちゃんには分からないよ」

「怜美先輩にもわからない、と思います」


 翔太君は、人の気持ちを考えられない人なんかじゃない。それなら自傷という内向的行為を思いつくには至らない。考えれば考えるほど、自分の心境が自分でも信じられず、驚きが波紋のように広がっていく。次の瞬間、脳内で、知らぬ間に張りすぎていた糸が切れるような感覚がした。


「翔太君は、あなたに構ってほしくて自傷している、そういう風に考えたことはないんですか」

「あるよ! 私だって、ずっと構ってあげられなくて、距離の取り方が分からなくて困っているの。だったらなんだって言うの! いい加減にして。私たちのこと、もう放っておいて」


 大いに語気を荒げている怜美先輩。顔が真っ赤に充血し、目のつりあがった彼女を、私は出会ってから初めて、醜い、と思った。


「……今日私を呼んだのは、私が自傷したことに対し、翔太君のせいだから、と謝る目的なんですね。見損ないました。翔太君が不憫で仕方ありません」


 ――こうやって、悪い血を抜いてんの。それで、潮の流れに乗って、優しい姉ちゃんの血が戻ってくるんだ。


 初めて『儀式』を見た日にきいた、翔太君の言葉を思い出す。翔太君は、姉のことを慕っている。その姉が、まるで弟を大切に扱っていない物言いには、腹が立った。私が腹を立てることではない、そのような気がしなくもない。


 しかし、私は確かに、翔太君を包み込んであげたい気持ちを覚えている。思いやりを超えた、慈愛に近いその感情が、私に大いなる自然のイメージを思い起こさせた。寄せては返す、この世界で一番大きな水の塊だ。私の中で、それは岩肌に打ち寄せる波濤のように荒々しく渦巻いていた。


「知らないわよ。あんな子……きょうだいになることを望んだわけでもない」


 がさ、と玄関の開く音がした。まずいと思ったが、遅かった。怜美先輩が止めるのを聞かず、玄関に向かう。翔太君は血の沁みついた長袖のTシャツ姿で、肩を落として立ちつくしていた。自分で自分を殺したように、生気がない。彼の心をここまで追い込んだのは、彼自身か、怜美先輩なのか。


 怜美先輩は部屋にまだいて、言葉にならない声でわめき、翔太君に気付いていないのだろう、話を続けた。私は気休めと分かっていても、そして翔太君がすっかり心神喪失して、もはや怜美先輩の言葉が耳に入らないのだとしても、それでも彼の両耳を、手でふさいだ。ほんの少し、翔太君は身じろいだ。が、その後私に何も語り掛けず、手を振り払おうともせず、目はうつろのままだった。


「親同士が勝手に好き合って愛しあって、産み落とした子のことなんて知らない。それに、あの醜いお母さんの子だなんて考えたくもないよ。私はどれだけ彼女に苦しめられてるか、あなたは知らない。大体翔太、生意気なだけならいいけど、男のくせにリスカばっかりして気持ち悪い。近寄りにくい。――私に今更、何ができるの。同情? そんなので解決しない。それに、そんなに私は優しくないし……しっかりものでもない。私は私で精いっぱい……それの何が悪いの……」


 怜美先輩の声は、最後のほうは震えていた。嗚咽の音が聞こえる。波が押し寄せてくるような泣きたさに、私も見舞われる。すぐに堪えきれなくなる。翔太君の頬からも、一筋。みんな泣いている。私は無意識のうちに、両腕で翔太君を引き寄せ、柔らかく包むように抱きしめていた。彼を慰めるためなのか、すがるものが欲しかったのか、どちらなのかわからない。

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