海と決意

 翔太君はその後例の砂浜を訪れて腕を切りたがっていたが、潮が満ちていてさすがに危険だった。私はそれでいいのか分からなかった。けれど彼がいつも常備しているという、かなり切れ味の鋭そうなナイフを、ついに取り上げることはできなかった。


 高台の公園で着ることはやめたい、という彼の申し出で、場所を近所の、これまた誰も訪れなさそうな空き地に移動する。雑草が腰の高さまで群生したそこに、何の思い入れもないという。だからこそ、ここで切りたいらしい。


 そこに着くと、まるで鬼に取りつかれでもしたかのような形相で、翔太君は腕を切った。


「じろじろ見るなよ、恥ずかしい」


 私はいいといわれるまで、距離をとることになった。一つ曲がり角を曲がったところの路地の真ん中で、私は待った。大声を出せば届く距離。なにも聞こえないが、その行為の特殊性から、そこに彼がいることをとても意識した。


 彼が私と一緒にいる間、その行為を我慢してくれていたのだとしたら。


 彼の姉想いなところ、その想いが、本人に粉々に砕かれようとも、私の前では健気にふるまおうとしていた姿は、ゆがんでいるけれどかっこいい。私は彼の意地っ張りに、また惹かれる思いがして胸をおどらせた。この感情が恋だなんて、分かりすぎるほどわかる。


 ひょっとすると、私の恋は同情の気持ちから起こっているかもしれない。それが何だというのか。人はより深いところで共通点を見出した相手に、強い親近感を覚えるのは当たり前だ。そうしてそれに、歳の差は関係ない。自然からすれば、人の命など吹けば飛ぶ埃のように儚いものだ。歳の差なんて、ほぼゼロに等しい。


 そして、それで海への初恋が、終わりを迎えたわけではない。自分の心の源のことを、好きにならないでいるのは、悲しいことだ。私はこれからも海を愛そうと思う。願わくば、翔太君と一緒に。


「ん、ただいま」


 血まみれのTシャツの、だるだるの袖を見せびらかすように振りながら、翔太君はやって来た。


「俺は今日、家に帰ってただいまを言おう、決めた」


 毒気が抜かれたのか、彼は飄々とそんなことを言いだした。


「おうち帰れる? 大丈夫? うちに泊まっていってもいいよ?」

「おせっかいな母さんも、それはそれで嫌だ」

「むう」

「ごめんごめん、澄香」


 翔太君は私に笑顔をすら見せた。私たちは帰途についたが、足が重いのはどちらかというと私のほうだった。彼が私の手を取ってくれた。手をつないで歩く。それだけで、胸が高鳴る。服に彼の血がつくのも、全く気にならない。


「亜紀も帰ってるかな、さすがにそろそろ」


 まるでいったん脱獄したところに二人戻るような時間はあっという間で、二十分ほど歩いているはずだが、感覚としてはすぐにマンションの201号室に着いてしまった。私は最後に、もう一度だけ翔太君に声を掛けようとした。勇気がいった。ようやく口を開いたとき、彼はすでに203号室に入っていた。何か、励ましの言葉をかけてあげられていたなら、と後悔した。


 家に入ると、やはり母親の靴があった。珍しいことに、父親の革靴もあり、両親とも帰っているようだった。


 リビングに、そのまま入る。両親はテーブルについて何か話していた。なんとなく、澱んだ雰囲気だった。


「お帰りなさい遅かったわね……って、澄香どうしたの!? その血」

「あ、私の血じゃないよ」


 そう言ってから、私の腕に他人の血がついているという説明が、いかに狂気じみているかにようやく気付いた。


「誰の血だって言うの? あなた、まさか……」

「翔太君の血だよ」


 私の心の器も、もう限界だった。私は山本きょうだいのことを、親に話さずにはいられなかった。私は一心不乱に、詳細まで語った。


 母親の表情に、驚きが浮かぶかと思った。怒号が飛ぶかとも思った。そのどちらでもなく、母親は怯えた子犬のような困り顔を見せる。


「だって、お父さん」

「うん。山本さんのところは、ちょっと異常かもしれないな、やっぱり」


 父親が、勝手知ったる顔で言った。母親は私に、亜紀さんとの食事の様子を伝えた。


「上品さで取り繕っているけど、彼女には心がないのか、なんて思ってたのよ。だってバイトさんに対してあんなに怒る人、私初めてだわ。おうちに招かれた時からおかしいと思ってた。異常な空気だったもの。怜美ちゃん、絶対泣いていたのに、お母さんが声を掛けないなんて怪しいと思ってたのよ」


 家に帰ってから、二人はその話をずっとしていたらしい。地方勤務にまだ慣れない父親は、ピリピリしながら母の言葉を聞いた。お互いに喧嘩をしたそうで、リビングのすみにお皿の破片が二枚分ぐらい転がっていた。


「もう、関わらないようにしなさい」


 父は私に、諭すように言った。私の話を受けて、彼が出した結論なのだろう。母親もうなずいた。


 これで最後なんて、ダメだ。絶対にダメだ。私は口を開いた。


「それじゃ、ダメ。私がついてないと、きょうだいは壊れてしまうよ」

「……その前に、自分の心が壊れたら、何もかも元通りなんだぞ」


 私は母親の、太ももの付け根に向いた視線を感じた。


 両親は、私が自分を殴っていたころを知っている。私はある日、父親にそれを告げたことがある。自分を殴る、そのときだけは、引きこもりの私もここに居場所があって、気持ちよくて、でもどうしようもなく私は凡人なのだと自覚できていいんだ。そう、まくし立てるように言ったら、父親は私に、当たり前だがすぐにやめるよう言った。その日から、自分を殴ることは父親に許されない行為になった。それがまた、快感を引き立てた。


 私はためらわず、長袖のブラウスの袖をまくり、自分の右腕を見せた。今や私は、小さな子供ではない。独りよがりの愉しみなどで、動いていいことではない。


「私ももう、あのきょうだいと同類だから。――この傷は、昔の傷じゃない。私だけの傷じゃない。――覚悟しておいて。私は覚悟、できてるよ」

「……澄香、唯奈ちゃんと、同じ目をしてるな」


 父親の目線が、なんだか優しくなって、それが本当に久しぶりで、少し泣けてきた。


「お父さん、お母さん」


 そう、呼んであげたくなった。


「私を許してください。あなたたちが私を大切に思う気持ち、とってもよく分かる。私はこれまで、あなたたちにとっておとなしい存在だったかもしれない。扱いやすい存在だったかもしれない。でも、私はいつまでも家に閉じこもっているわけにはいかないの。体も、心も」


 私の脳裏に、ふわりと唯奈の影が現れた。彼女のように、圧倒的な善意の塊のような存在には、どうあがいてもなれないけれど。私はあのふたりと、感情を中和したい。私は海の素敵さを共有できる怜美先輩が好きだ。私は優しさと献身の塊である翔太君が好きだ。家庭環境が、まるで違う。しかしだからこそ、少しずつ影響しあって、答えを出していきたいと強く思う。


「迷惑をかけます」


 私は二人に頭を下げた。少しして、私の頭に父親の手が置かれた。


「やってみなさい」


 私は父親の、優しい手の動きを心地よく思った。そして彼に頭を撫でられるなど、これが最後だとも考えた。父親は穏やかな表情で、その後適量の日本酒を飲んだ。

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