より近い海(1)

 演劇の練習が終わって後片付けがすみ、それから家に帰ったが、誰もいなかった。リビングの時計は午後七時を指していた。ダイニングのテーブルに置かれた、ラップのかかった皿を見て、山本のお母さんと夕食を食べてくる、と聞いていたことを思い出した。レンジにかけ、一人黙々と夕食を食べた。暇になる。


 翔太君からショートメッセージ――最近ようやく電話ではなくそれを覚えた――が来ていた。誰もいなくて暇だから、久しぶりにうちで遊ばないかという誘いの言葉だった。学校でちらほら姿を見かけてはいた。私が山本家族にもたらした変化を、いくらも気にしていないとはいえ、怜美先輩と顔を合わせることは少し億劫だった。誘いのメッセージが再び届いて、どうやら今日会いたいらしいと判断し、ようやく腰を上げた。夏休み以来の、203号室だ。


 怜美先輩と、お母さんとのことには、なにも触れないでいよう。そう誓いを立ててから、インターホンを押した。


 普段着の怜美先輩が迎えてくれた。心なしか、目の下にくまがあるような気がする。まぶたもぱっちりとしていない。学校での彼女は、確かに輝きを放っていた。それは虚勢なのだと、今思い知った。


「ふふっ、暗い顔してどうしたの、何か悩み事?」


 そう聞きたいのはこちらなのだが、彼女は気丈にそういった。また心の中で重いものが凝り固まった。


「なんでもありません。誘ってくれてありがとうございます」


 彼女の部屋に入った。前と変わらず、本棚に本がぎっしり詰まっていて、大人っぽい部屋だ。ひとつ変わったのは、海の見える――そう分かっているだけで、私は海を直視しない――窓際に写真立てがひとつ置かれていること。


 怜美先輩の、本当の母親の写真。私はそちらを見ないようにした。


「そういえば、翔太君はどうしたんですか」

「最近は夜遅くまで、どこか出かけてる。あの石の置いてある砂浜なんじゃないかな」


 翔太君は私をあの砂浜に初めて誘った日、姉ちゃんも知ってる、と言っていたのを思い出す。悲しみのしずくが、私の胸に落ちる。


「止めないんですか」

「止めたりできる立場じゃないよ。私のせいだから」


 伏し目がちに、冷たい口調でこぼす怜美先輩。この話題を避けようと、必死に頭を働かせる。


「そうだ、新堂君の大会見に行くって、本人に言ったら聞いてないって言ってましたよ。ていうか私もついていって本当にいいんですか」

「本人に言ってないから、そうだろうね。新堂君に言ったってことは、澄香ちゃんもついてくることの確認は取ったんでしょ? ならいいよ」

「いつも、そんな感じなんですか」

「まあ、長い付き合いだから、その辺はルーズというか。二人でよおく遊んでるし、お互いの記念日を、祝ったり祝わなかったり。一緒に学校の行事に参加したり、しなかったり」

「付き合ってる?」

「あはは、澄香ちゃん、そう言うのじゃないよ」

「私も、答えが分かって聞きました。ごめんなさい。クラスメイトは誤解してるみたいで」


 ――あの二人って本当にお似合いなのにね。


 クラスメイトの間でもそういう話が出ている。幼馴染でもあるし、もう早くくっついて俺たちに変な期待を抱かせないでくれ、という男子生徒たちの嘆きも聞こえる。


 二人は確かに、親密な仲のように見える。朝登校するとき、怜美先輩が新堂君の肩を叩いてにっこり笑いかけるのを見たことがあるし、どうやら時折一緒にお弁当を食べているらしい。


 しかし、つき合っているということと、それとは、まるで関係がないと私には分かった。目の色を見ると瞭然だ。互いに、追い求めていることに、夢中になっている目。


 恋仲では決してない。二人に、そういった余裕はない。


「まあ新堂君、もてるよね。なにか一つのものごとを追い続ける姿は、誰にでもかっこよく映るものだよ。私もかっこいいと思う」

「そうですね……私も」


 途端、怜美先輩の顔が悪戯っぽい笑顔に変わる。


「かっこいい? 新堂くんかっこいいよねやっぱり! 好きになっちゃいそう?」

「海がなければ、恋に落ちていたかもしれません」


 それは本心だった。話しやすいし、何より私は彼のことをよく見ているのだと思った。


 授業中も、ふと彼のことを見てしまう。当人は、授業より窓の外から見えるプールに熱心な視線を送っているので、気づいてはいない。そして、その行為そのものが私にとっての彼の返事のような気がする。


 ひゅーひゅーと冷やかす怜美先輩。彼女の顔に笑顔が浮かんでいるだけで、私は嬉しい。私は付け加えて、彼が泳ぎに集中したいのでなければ、と言おうとするのをやめた。会話は成功している。このまま、今日は楽しく雑談して、過ごしきりたい。


「さて、今日澄香ちゃんを呼んだ目的なんだけど」


 私は楽しい話にかまけて、怜美先輩がそれを忘れてくれることを期待していた。しかし聡明な彼女に、その期待はしても無駄だった。心臓がとくりと大きく鳴る。


「腕を見せて」

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