私の中和(5)

 血塗られた石にさわると、一秒と触れ続けていられないほど熱かった。翔太君は慣れた風に腕を露出し、すでにある傷口などお構いなしに一文字に腕を切った。血が落ちていく。波の音が、まるで耳栓をしているように聞こえず、そうして彼が腕を切る様子に、夢中になっていた。


「やってみれば」


 私は腕を切るのは初めてだった。どうすればいいのかよく分からず、ひとまず手をかざして石から出る熱気を肌に感じてみた。そのとがった石の純粋な鋭利さに、私たちの考えを投影することも失礼な気はする。


「すげ、肌白っ」


けれどこの石からは、明らかに、憎悪の気持ち、翔太君の内省が詰まった雰囲気が感じ取れた。私は翔太君の動作をまねて、鋭いところに腕を当てがい、引き寄せてみた。躊躇い程度に白く傷がついただけだった。


「あんたの悩み、その程度なの?」


 翔太君は私に言った。茶化しているのか、真面目なのか分からない。


 私のようなみっともない、人の気持ちの一つも理解できない人間は、海に釣り合わない。それならいっそ、私の醜態を、刻み付けてやりたい。そうして私を軽蔑し、もう返事をよこさないでほしい。誘惑をしないでほしい。そう言ったことを考えながらもう一度同じ動作をすると、うまく切ることができた。腕が伸びる方向に、ものさしの長さほどの傷ができ、血があふれ出てきた。


「初めてのリストカットの感想はどうですか?」

「気持ちいいね」


 こんなものか、というのが正直な感想だった。焼けるような熱さ、ひりひり、じんじんする痛み。それと同時に、少しだけ何か自分の中の毒気が吐き出されたような、結局何も変わっていないような。私の血が、石のうえに垂れる。翔太君の血と混ざって、どちらがどちらのものかわからなくなる。


「なんか、血がつながったって感じ?」


 翔太君はそう言っておいて、少し赤面した。翔太君には少しうぶなところがある。私が言えたことでは、決してないのだが。


「代わって」


 照れを振り払うように、翔太君は私の手をどけると、無我夢中で何度も切った。かさぶたが、無遠慮にはがされて、それが血で染まっていく様を見ていた。痛さや熱さも、嫌悪する血を抜く安堵感に繋がっているのだろうと思った。


 私はそれを眺めながら、彼と同じように感じることができればどんなにかいいだろう、と羨ましかった。自傷することで、太ももの付け根に青あざを作っていたころに帰ることを期待していた。少しでも、あのころの自分が、自分であったと、思い込みでもいいから噛みしめたかった。


 けれど、今あるのは、ただ潮風が傷口に沁みる感覚だった。この街で生きている、そのことを確認しただけ。


「なんかさ、俺も俺ばっかり切っても仕方ないというか。もっと、他のものに当たるほうが健全なんだろうな……なんて、たまに思うけど」

「それができたら、そのほうがいいかもしれないね」

「……あんたは、自分で切る必要はなさそうだな。むしろ切っちゃいけない」


 私が腕を切ることに対し覚えた徒労感を言い当てるように、翔太君。


「翔太君も、やめられるならやめてね。そして、他のものにあたること。といっても、大事なや人にあたっちゃだめだよ」

「そこは警察の親父に免じて、辞めておくけどね。器物損壊、傷害事件……殺人。少年院行きはごめんだ」


 その冗談めかした口調の中に、なんとなく危うい雰囲気を感じて、私は思わず息をのんだ。


「――人を殺したいと思ったことがあるの?」

「お母さんを殺したいっていつも思うよ。でもそんなことはしないし、できないってわかってるだろ。身内や姉ちゃんに迷惑は掛けられない」

「うん……」


 私は頭に鋭い痛みを覚えた。自分を傷つけることで、その痛みを味わわないと生きた心地のしない人間は、他ならない自分の生命の存続のために自傷するのであって、その行為は自分を殺したいとか、そういった感情から来るものでは決してない。翔太君の場合もそれに似ている。が、よく考えると全く別物だ。自分が憎いから切っている風ではあるが、その行為をする虚ろな目には、母親が映っている。


「絶対にやめてね」

「分かってるよ」


 怒りの対象さえ何とかしてやれば、翔太君の自傷癖は収まる性質のものだと感じた。私はその解決策を考えたが、それを口にする段になって急につっかえて、どう頑張っても声に出せなかった。私は、怜美先輩に余計なお世話を焼いたばかりか、それで山本家の家族関係を変質させ、翔太君にも、彼らの両親にも迷惑を掛けたのだ。もうこれ以上は、いけない。私が彼らに影響を与えてはいけない。よそ者の私が。


「あんたはうちのこと、気にしなくていいよ」


 翔太君は私に、照れくさそうに頭に手をあてながら言った。


「姉ちゃん、夏休み終わりのあの夜、すごく喜んでた。ありがとう」

「……翔太君の口から感謝の言葉がきけるなんて、感激」

「冗談とか、そう言うのじゃないよ。今の状況は亜紀が作っただけであって、姉ちゃんはあんたに声を掛けられて救われたって言ってる。俺も姉ちゃんが追いだされてるのに何もできなくて悔しかったのに。俺なんかより、よっぽど姉ちゃんに近いのかもね、あんた。あんたも辛いことがあって、こうして今日腕を切ったんだろ? あまり悩みすぎないようにしなよ。あんたの泣き顔――」


 そこで翔太君は、一瞬詰まった。ほんのりと、頬に朱がさした気がする。


「すっごいブスだからさ」

「ありがとね」


 私は先に、その石に背を向けて元の砂浜へと歩き始めた。足は自分のものではないかのように自制が利かず、砂に引っ張られて何度も転びそうになった。翔太君に対して覚えた、暖かい気持ちが邪魔をしていた。事情を聞かずとも、無条件で心配をしてくれている。それは、素直に嬉しいことのように思えた。

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