私の中和(4)

 あれこれ考えているうちに、自分が情けなくて涙が出ていた。ポーチから取り出したハンカチで涙をぬぐっていると、ふいに砂粒が目に入って痛んだ。どちらにしろ涙を流すのだから、なんということはない。


「よう」


 その砂粒を運んできたのは、翔太君だった。彼は品のないしぐさで長袖のTシャツについた砂を払い、私の隣に座った。


「なにがあったか知らないけど、泣くと顔がしわだらけだね」

「あはは、怒るよ」

「そうしたら俺も逆切れする」

「怒る元気なんてないくせに」

「お互いさま」


 翔太君は力なく笑って、Tシャツの袖をまくった。紫のかさぶたが生々しく肌に張り付いていた。


「この前はいつここに来たの」


 この砂浜と、翔太君のいわゆる『儀式』の場所とは、かなり近い。今日も腕を切りに、ここへ来たのだろう。


「おとといかな。うちでちょっと、色々あってね」

「お母さんのこと?」

「まあ、そんなところ」


 深入りすることではない。そういう自制がないではなかったが、私には一つだけ確認したいことがあった。


「警察をしてるお父さんは、嫌い?」


 沈黙が訪れた。ずけずけと尋ねてしまうのは、消沈した気分のせいかもしれない。人の気持ちが、思いやれない。いや、人の気持ちと私が感じるものは、かりそめのものなのではないか、私は幻影を見ているのではないか、という考えが常にちらついていた。だから、翔太君の気持ちに正対しつつ、どこか他人事のように扱おうとする自分を感じた。


「姉ちゃんに聞いたの、それ」


 翔太君の目が光り、興味を覚えていることが見えた。話に食いついてきたら続けようと考えていたので、


「そう。翔太君がお母さんの血を嫌いだってことは知ってる。お父さんの血も、嫌い?」

「……分からない。うちの親父、立派だなってよく言われてるけど。署のケイジカのカカリチョウってやつらしくてね。結構偉いらしい」


 自分でもよくわかっていないような口調で翔太君は言った。


「誇りに思える父親ではないよ。だって家じゃ、亜紀のなすがままだもん」

「亜紀?」

「母親の名前。もう母親とも思いたくないから、そう呼ぶことにした――父親は、亜紀に弱みでも握られてるんじゃないかなって、思うよ。不自然なまでに、俺たち子供のことには口出ししてこない。お金も亜紀が管理してるし」


 翔太君はしばらくうつむいて、靴で砂を蹴っていた。彼の胸の中で、様々な思いが去来しているような気がする。


「あんたがきて、ちょっと、家の雰囲気が変わったかな」

「そうなの? よかった」

「――あまり気負わず聞いてほしい」


 彼は雲一つない青空の高いところに浮かぶ太陽のほうを向いている。左手で日差しを遮って、目の焦点はそれほど定まっていない。私は、少しずつ落ち着いてきていた。


「姉ちゃんが、亜紀にいじめられるようになった。よそ者に少し影響されたからって、何を小生意気なことをしてくれているんだ、とかなんとか言いながら、姉ちゃんを叩くようになった」

「……」

「可哀想で、でも俺が割って入ることもできなくて……自分が何かに縛られるみたいになるんだ。亜紀の血の呪縛なのかな」

「怖くても、仕方ないよ。お父さんは……話を聞く限りだと何もしないんだね」


 私はまるで死にざまのようなうめき声を発することしかできなかった。彼は憎々しげにうなずく。


「俺は、男なんだから、動くべきなんだよ。止めるべきだ。でも、できないんだ。それもこれも、亜紀の血のせいなんだ、あいつの血は、まるで毒だ。毒だ――」


 これ以上彼に話を聞くのはまずいし、何より私の精神も持つかわからない。亜紀さんのいう、よそ者とは、間違いなく私のことだからだ。余計なお世話だった。私にだって良心がある。善意がある。それらは余計なお世話だった。怜美先輩は、確かに前に進む勇気を持った。進んだ先が、常に良いところとは限らない。私は悪い方向に、彼女を導いてしまった。


 よろよろと立ち上がり、スカートの砂を払って、


「今日は行く?」

「行くよ」

「私も連れていって」


 翔太君は座ったまま、興味深そうな目で私を見上げた。


「また見たいの」

「それもあるけど、私もあそこに用があって」

「なにすんの」

「私も、切りたい」

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