私の中和(3)


 美薗と別れた私は、家に帰らずそのまま砂浜へ向かった。波に洗われた砂が、スカートにくっつくのをいとわず、私は腰を下ろしてただ、水の流れを見つめていた。相変わらず、海はかっこよく寄せ、私を飲み込みそうなほど勢いよく迫ってくるかと思うと、その直前で、砂を洗う音を立てながら、キレよく引いていく。ほっと息をつくのも束の間。次の波が、予測しないうちに胸に迫る。駆け引き上手なところも、ぐっとくる。


 この気持ちだけは、本物で、変えたくないことだ。そして、自分のわがままさにあきれ果ててため息をつく。汗が流れていた。快晴の日差しが、肌をちりちり焼いているようだった。


 あいまいな『自分』というものは、環境によって見られ方が違うこと。それが怖い。今いる環境が苦手なのに、昔の関係は断ち切りたいのか。そして私はいまここで、恋をしている。そんなわがままが許されるか。


 ずれ、だ。S高校でとにかくもてはやされている、山本怜美と新堂直輝という二人について感じたずれが、新たな形で、さらに大きなずれとして私の中で認識されていた。


 S高校の中で、なるほど山本怜美と新堂直輝の二人は光彩を放っているようだった。転校してもうすぐ一か月になり、それとなしに二人の様子を伺って見ていた。その辺の生徒とは、纏う雰囲気が違った。私は占い師でもメンタリストでもなんでもないが、二人のオーラは並みの生徒たちの中では異質だと感じ取れた。二人で話し合いながら校舎の廊下を歩くときなど、本当にそこにスポットが当たっているかのようだった。手をつないで歩いていて、いちゃついているように見えるが、それがお似合いに見えるほどだ。


 怜美先輩は華やかでいて、どこかはかなげ。誘えば寄ってきそうな雰囲気は、男の子にとってはたまらないだろう。しかし中身はしっかりとしており、成績は優秀で、生徒会長をこれまでにない素晴らしさで勤め上げた。


 新堂君には、穏やかそうな表情と風格の裏に、心に気高い狼を飼っているような雄々しさを感じる。全国大会出場の自信があるのだろうか、やることなすことが堂々としていて、曲がったところがない。


 二人はしかし、大きな欲望によって動かされているだけであり、たまたまそれが形の残るものであった。それだけなのだ。怜美先輩は、目立って本当の母親に会いたいということ。新堂君は、海を征服したいということ。みんなは勘違いしている。


 普段の会話では、みんなに合わせて、二人を褒めたたえる。けれど二人が頑張る事情を良く知っている私は、本心からすごいとは思えない。素直ではないのかもしれないが、自分に嘘をついても仕方がない。


 東京という環境から来た私が、彼彼女らを見た印象だ。


 もう、クラスメイトとうまくやっていける自信がない。明日からまた、授業や文化祭の準備で顔を合わせるが、どう受け答えしたらいいのだろうか。いや、それは分かり切っていた。偽りの自分を、演じ続ける。そうするしかない。それをこれから高校卒業まで続けることを考えると、茫然とした感覚に襲われる。


「唯奈」


 私は再びその名を呼ぶ。東京で私の環境を作った存在――唯奈のことが、自然に頭に浮かぶ。


 人は環境に左右される生き物だ。そして私の場合、外とかかわりを持つことの前に、物語で予習をした形になる。


 物語の面白さを知ってから、私はよく小説や漫画を読むようになった。いかにも女の子が読んでいそうなものばかりがたくさん本棚には刺さっている。棚が一つで足りず、父親に頼んで日曜大工でもう一つ作ってもらったほどだ。そしてそれらを、中学三年以前は一冊も持っていなかった。


 初めの一冊は唯奈が、私の引きこもり時代にポストに投げてくれた漫画だった。難しい話ではない。流行りの少女漫画なのだが、私はその本を死ぬまで本棚に入れておくつもりだった。人と人との関係そのものの描かれ方に、初めて感動を覚えた。良き友、良き恋人がほしくなった。私の心にあった感情の蕾が、そのとき花開いたのかもしれない。


 私に、手を差し伸べてくれたのは――空っぽのお腹に感情という臓器を詰めてくれたその人は。彼女に、いわば心をもらったという事実は、一生変えられない。それが時間の流れに沿って変わっていくのは、怖い。


 急に東京が恋しくなった。戻ることができるなら、戻りたい。元の高校の、理科が得意なことだけが取りえの、あまりかわいくない女子高生に戻りたい。あれだけ自分は悪態をついた東京に、うしろめたさがある。もう願っても叶わないことだとも分かっている。考えても仕方のないこと。


 それでもこれだけは、叶うから。私は唯奈に会いたい。会って直接、頭を下げたい。帰ってゆっくりと、謝罪のメールの文面を考えようと思った。

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