私の中和(2)
「ほら、ついたよ」
バス停で降りて少し歩くと、なだらかな丘の上にホームセンターが見えた。
「駐車場広っ!」
素直な感想を漏らすと、美薗ちゃんはお腹を抱えて笑った。
「なによ」
「言うと思ったから。さ、行こう」
私たちは手分けをして、事前に作ったリスト通りにものを集めていく。ホームセンター自体も、無茶苦茶広い。小さなころからやってみたかったことが、やりたくてうずうずする。カートを思い切り滑らせて足を浮かせたところ、持ち手に体重をかけすぎて手前側へと倒れ、私は思い切り音を立てながら転んだ。
「すごい音したけど大丈夫……」
美薗ちゃんが近くにいたようで、私の近くまでやってきて声をかけるが、気恥ずかしさではにかまざるを得ない私の様子に、
「大丈夫そうだね」
「そ、そんなに大丈夫じゃないよ」
「大丈夫だよ、だって澄香、楽しそう」
そう言って再び棚の商品を眺め始めた。
ああ、これは少しのずれ。そのはず。肘を床に強くぶつけて、ジンジンと痛んでいた。痛みと、子供じみた失敗を見られたことによる恥ずかしさは、私に過去を想起させる。
引きこもってずっと科学の世界に没頭していた私。自分を痛めつけていた私。それらの私が、少しだけ現れた。ふいに翔太君の言葉が、脳裏からふっと浮かんできた。
――ちょっとした、儀式かな。変化の儀式。
あの頃の私はどこにいるのだろう。探しても、見つかりそうにない。それはなんだか寂しいような気がした。儀式が必要かもしれない。私が、私に帰るための儀式が。
しかしこうして美薗と楽しくすごせている私も、私である。それは間違いないのだ。
買い物を終わらせると、ちょうどお腹が空いたので、バスでいったん駅に戻って昼食を一緒に食べようということになった。私は帰りのバスで、わざと車輪の上の座席に座った。激しい揺れは、自分の頭を机に打ち付けるときの振動を思い起こさせた。そういう気分に浸りたかった。
駅に着いて、商店街を歩く。外れに個人経営らしい喫茶店があり、ログハウス風の雰囲気が気にいったのでそこで食べることにした。
メニューのラミネートがやや薄暗い明かりを反射していて、そこにランプが映り情緒がある。やはり丸太をモチーフにした内装だったが、木のにおいはしないので、模造したものだろう。
「小説家とか、脚本家とか目指してるの?」
話題を振るため美薗にそう尋ねると、蚊の鳴くぐらいの声で「ア・リトル」と返事が聞こえた。なんでも小学校のころから物語を書き続けているらしく、高校の文芸部に入ってから二作ほど小説を書いて新人賞に応募しているらしい。
「澄香は? 理系科目、専門の生物と化学を取っているみたいだけど」
S高は珍しく、二年次まで文理混合クラスという形が取られている。私は高校の時理系クラスにいたので、移動教室の多さにはじめ面倒を覚えたが、これも慣れてしまえば何ということもなかった。
「私は、……私は小さいころから、ものが大好きだった。ずっと、科学者になりたいって思い続けてる」
「へー、小さいころからの夢なんだね。なんていうか勿体ないね」
美薗ちゃんの言葉に、私は頭を何かに打ち付けられたような衝撃を覚えた。長年の夢を、勿体ないと切り捨てられたことへの不満を覚え、私は口をとがらせて、
「勿体ないってどういうこと」
「いや、澄香って絶対心理とか福祉系の仕事が向いてると思うんだよね。カウンセラーとか心理士とかさ」
生まれてこのかた、一度もなろうと考えたことのない職種だ。
「まさか」
「なに本気にしてんのさ。冗談だって。科学者の夢、素敵だよ。――まあ私が澄香みたいに話しやすい、というか、こちらの話を引き出してくれる力を持っていたら、カウンセラーになっていたかなってだけだよ」
私が山本きょうだいに抱いた感情、それは、彼彼女らが生きやすく、安心して過ごしてほしいというものだった。そのために、私は二人を元気づけた。
あの夜。怜美先輩は、そして私の働きかけで、明らかに変わるだけの勇気を持ってくれた。
確かにこういった特徴を持つ人間を思い描くと、うっすらとであるが、その姿が見えるようだった。しかし、それが見えたのは、何というか、実像としてではなく、あくまでそういう人もいるかもしれないという、少し引いた視点からの見方だった。
「私って、人から見て話しかけやすいのかな」
「それはもう、すごく。始業式の日の自己紹介を除けばね」
美薗は快活に笑った。
「そんなこと言ってくれたの、初めて」
「……きっとね。澄香は小さいころから孤独とか、そういうのを感じてて、辛い気持ちを知ってるから、今の澄香は優しいんだと思うよ」
胸がきゅっと締め付けられた。私にとって過去は、暗く、そしてなんの役にも立たない――しいて言えば学校の理系の成績が良い程度――ものだと確信していた。美薗の言うような過去のとらえ方を、今までしたことがなかった。
私はそれが怖かった。彼女の考え方が、受け入れられない。理解はできる。その通りだと頭は理解している。私の心は、そういった考え方を一切受け付けない。頭が急に鉛に変質したように、重かった。視界が揺れている。
「澄香、澄香? 大丈夫、気分悪い?」
「うん、ちょっとバスで酔っちゃったみたい」
私は食事のオーダーをやめ、コーヒーだけを頼んだ。気分が悪く、美薗ちゃんの頼んだサンドイッチが届くまで口を付けなかった。彼女が食べ始めて、私もさすがに一口も飲まないのは失礼だと思い、ストローを刺してコーヒーを吸った。うまく飲み込めなかった。誤嚥してしまい、むせた。涙が流れる。
「私の過去と私は、何のかかわりもないものでないといけないの、だって、あのころの私は、全然違う。昔の私は関係ない。私じゃない――違う、そうじゃないけど、昔の私は確かに私だけど、でもみんなと会ってる私は、確かに昔の私じゃない! とにかくそうなの!」
「ご、ごめん」
語気を荒げる私に、美薗は目を白黒させながら謝った。違う、謝ってほしいとかじゃなくて――。ずれ、という言葉が私の脳を去来する。やはり、根本から、違うのだ。たやすくなどない。私は――私は昔のまま。それは嫌なことだけれど、変わりたいけれど。空っぽの私に心を植え付けてくれた存在が、ふわふわと漂っていた。
「どうしたの? 疲れちゃったかな、帰って休みなよ」
「唯奈、唯奈」
自分の意識が、まるでガラス越しであるかのように薄弱で、ほぼ考えなしに口をついて出たのは、ただ一人の、私を作り上げた、かけがえのない親友の名だった。
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