第二部

もののみかた(1)


「はじめまして、松野澄香です。好きな教科は化学です。よろしくお願いします」


 私は九月一日、朝のホームルームでそう自己紹介した。拍手はまばらだった。そして始業式までの小休憩で、私に声を掛けてくれたのは新堂君だけだった。


 よく考えれば当然のことだ。小さな平和なコミュニティに、異物をすぐに受容するだけの柔軟さを期待していた私が馬鹿だった。短い自己紹介の間に、私は異物なりに、少しでも溶け込みやすい性質を披露するべきだったのだ。なにが、好きな教科は化学だ。もっと言うべきことはあった。


「あの自己紹介じゃ、クラスの隅っこにいるかいないか分からない一人だね」


 新堂君にすら、そういう冗談を言われてしまう始末。


「ひどい」

「大丈夫大丈夫。松野さんから、いろんな子に話しかけてみたらいいんだよ。僕からは、もうみんなに、松野さんはいい人だって言ってるから。きっかけを作るのは松野さんだよ」


 確かにそうだった。転校生というステータスを得ていて、受け身である必要はない。自分から、仲間を作りにいっていいはずだ。その権利はあるのだと、中学校のころの私は分からなかったと思う。前いた高校でも、分かりはしても実行は難しかっただろう。


 渋る私の背中を、怜美先輩が押していた。夏休み最後の金曜日の夜、怜美先輩はしっかりと家に帰った。その三十分後くらいに私にメールをくれたのだった。


『家に帰れた。お母さん、私をゴミを見る目で見つめてきただけで、家に通してくれた。本当にありがとう。澄香ちゃんは、人を動かす天才だね』


 最後の一文は明らかにお世辞だとしても、私の心は火照った頬のように蕩け落ちそうだった。悪い習慣を悪いものと気づくことは、よそ者なら誰でもできる。しかし、本当に偉いのは、悪い習慣を断ち切ろうと努力する当事者だ。私は怜美先輩に訪れた変化を喜んだ。そして、力をもらった。すなわち、自分から行動を起こすことへの勇気だった。


 始業式が終わり、担任の浅田先生の話――よりによって甲高い声だ――を聞いて、放課になった。私の胸は張り裂けんばかりに高鳴っていたが、勇気を出して、隣の読書をしている女の子に声を掛けたのだ。


「何の本読んでるの?」


 その子の名前は、野辺美薗ちゃん、だったはずだ。


「地元の作家。自叙伝みたいな?」

「へえ、すごいね野辺さん。私中学校の時文芸部だったけど、難しい本は読まなかったなあ」

「別に難しくないよ! 最近の人だし文体も軽いからさ。そうだ、この人の本貸してあげようか?」

「いいの? なんというか、あなたも私もお互いのこと、知らないし」

「本好きに悪い人はいないよ! ほら、この辺りの話もいろいろ出てくるから、勉強になるかも!」


 私が何も言えないでいると、決まり、と野辺さんは手をたたいた。彼女はいつしか本から視線を話して私に笑いかけてくれている。赤縁の眼鏡とすらりとした鼻が、大人っぽくて素敵だった。


「歓迎するよ、転校生の松野さん! って、あれ? どうして泣いているの?」

「ごめん、ごめんね。嬉しくって、つい」


 驚いていた。私はこれまで、できるだけ何も望まずに生きていたように思う。行動を起こす時も、熟慮に熟慮を重ね、結局石橋を叩いて渡らないことも度々ある。


 話しかけてよかった。本当によかった。夏休みの期間中に考えていた不安が、すべて無駄になったのが、たまらなく爽快だった。


 だから私は野辺さんに中学や高校の話をするのが、苦痛でなかった。人づきあいの下手さに関する自分の意気地なさについて、時折茶化しながら話をすることができたほどだ。野辺さんは私の話を、うんうんうなずいて聞いてくれた。話を終えると、野辺さんは私の手を取って、


「そんなに大事な話、いきなり私が聞いちゃってよかったのかな……ありがとうね。私たち、友達になろう」


 暖かい手だった。私は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、うなずいた。

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