海と夜(6)
再び、どこか皮肉めいた口調で、
「東京は楽だよね、SNSでどこかのおじさんとかと仲良くしたら、眠るところには困らないし。簡単に家出できるよね」
「怜美先輩」
私の怒気を孕んだ声に、彼女は素直に謝った。
「家出で思い出した――小さなころ、大きな家出をしたことがあってね。三日ほど、家に帰らなかった。あんまりにも、嫌になって。その間、ずっと本当のお母さんを探していたのよ。当てもなく、けれど頭の中には本当のお母さんのことしかなくて、ほぼ一日中砂浜に座り込んでいた。それじゃなきゃ、ふらふらと街をさまよい歩いていた。なんとなく、日本らしさがないところを、探し回った。街に一つのバーのあたりとか、海外の観光客の多いところとか。――気づいたら、私は歩き疲れて倒れていた。倒れた瞬間の記憶だけ、ぽっかりと空いていたけれど、その後は、なぜか自分の感覚が敏感になっていった。アスファルトのにおい。海の音――とっても居心地が悪かったけれど、しばらく動けなかった。なんだか悲しくなって涙が流れ始めたとき、私は新堂君の家にいた。新堂君の話は、翔太から聞いたよね」
私は急に流暢に話しだした怜美先輩を邪魔しないように、さっとうなずいた。そうしながら、月を眺め、海のほうを見た。潮のにおいを感じた。私にとっての恋の香り。
「私と新堂君とはそのとき、狭い町だからお互いに名前くらいは知っていたけれど、知り合いというほどではなかった。彼のお母さんが車に乗っていて、歩道に倒れている私を見つけて家まで運んでくれたと言ってた。新堂君のおうちで、私は彼に話しまくった。悔しい、悔しいって何回も言い続けた。心は、いつも本当のお母さんのそばにあるのに、今身の周りには、「ここ」のにおい、音しかない。本当のお母さんのいるところに、行きたい。そこで暮らしたい。辛くてたまらなかった。私が胸の中の言葉を全部出してしまってから、新堂君は静かに言ったの。『どこへ逃げたって同じ』って。その通りだと思った。だって地上に住んでいる限り、海に囲まれる生活は当たり前じゃない?」
その言葉に、私は何とかうなずきを返した。しかし私の胃の底で、何かどろどろとしたものが渦巻いた。
「……先輩は、この町が嫌いですか?」
反感を口に出さずにはいられなかった。
「その地にはその地の、香りがあるとは思いませんか。どこへ逃げたって、確かに海は海です。でも、その場その場の海は、明らかに違います。同じ海とは思えないくらい……東京湾と、ここみたいに。先輩は、今ここの海に感謝すべきだと思います。敬うべきだと思います。恋するべき、だと思います」
いつしか彼女の纏っていた負の雰囲気がかき消えていた。やわらかく微笑んで、怜美先輩は言う。
「私はこの町のこと、好きだよ。引っ越してきたときに思ったもん、こんなにきれいな海がある町なんてもう、一生見られないだろうなって。直感した。それで、心地いい潮の流れに、私の心が溶け込んではくれないかって思ったんだ。――初めて会ったとき、詳しく話ができなかったけど。心の少しだけでも海になって、陸のどこへでも押し寄せる波になりたい。そうしているうち、本当のお母さんに会えるだろうから……そうして生身の、体を持った私は、私に抱きしめられたい。その場は、ここの海じゃないと嫌」
怜美先輩の言うことは難しかったが、私はなんとなく分かる気がした。下手な同情かもしれない。けれど、ぼんやりと分かった。それで十分だと思った。先輩の目の色は今、深い海のように青く澄んでいる。暗くてよくわからないが、確かにそうだ。
「お父さんの話を、するね」
すっかり平静を取り戻して、怜美先輩が言った。
「お父さんは警察官で、ここの警察署で働いてるの。警察の娘が、夜ずっと外にほったらかしにされてるって、なんか不思議な気分だけどね。――どうも仕事ぶりは優秀らしくて出世の試験を受ければ間違いなく通るって言ってるんだけど、この町にとどまっているの。それは、お父さんがここを好きだから。街の平和を守っている人の娘が、一晩中放り出されるなんて、あべこべなんだけど。それはお母さんのやり方。家のことは、全部お母さんがやってるから――話がそれたね。とにかく、お父さんの血は私に流れていると思う。お父さんが愛する場所を、私も愛したいというか、そういう感じ」
子は親の思い通りにならないものだ、とはよくいう話だが、怜美先輩はすがる血縁が、父親にしかないのだ。大切にしたい気持ちは、分かった。
「私は本当のお母さんに会ったらもう、満足なの。一晩ぐらい語りあって、そうしたら、ここに帰ってくる。ここで、一生を終えたい」
怜美先輩に誘われて、私は海へと向かった。夜の海は黒く、吸い込まれそうなほど深い。さらに、圧倒的な静けさがあった。
「想いが届くといいですね。お母さん、見つかるといいですね」
口下手な私は、万感の思いをこんな月並みな台詞に込めることしかできないけれど。怜美先輩の目から、塩分の混じった水がこぼれたのを見て、私は胸があたたかくなった。目の組織を保護する涙という液の分泌は、私たち生物が海から生まれたことの証左だった。その塩分濃度は、太古の海にほぼ等しいらしい。彼女の大きな瞳から、太古のしずくが一滴、またひとしずくと砂浜に落ちた。私の脳裏には、彼女の目が心の源泉で、こぼれんばかりに想いが張り詰め、それが抑えきれなくなって溢れ落ちている、そんなイメージが浮かんだ。
「あ、先輩笑ってる」
「笑ってないよ、泣いてるよ」
「笑ってますって」
「……澄香ちゃんのおかげだよ」
「まさか、私は何もしてませんって」
「……声を掛けてくれてありがとうね。今から家に、戻ってみる」
それを聞いて、私まで涙をこぼしそうになった。漆黒の海は月の輝きを反射して、こちらへ語り掛けるように、所々明るくきらめいた。
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