海と夜(5)


 怜美先輩は駐車場の角に止まった車の奥で、膝を抱えて座り込んでいた。ワンピースから伸びる、夜の街路灯にさらされた脚は細く、壊れもののようで、私に静かな緊張を与えた。放っておくことはできなかった。彼女に手を振ってみる。気づく様子はなく、ただ茫然と地面を眺めたり、膝に顔をうずめたりしていた。私は部屋着を着替えることもせず、居間の両親に「ちょっとスーパーまで」と伝えて外に飛び出た。


 私が駐車場に入ったとき、彼女の姿は見えなかった。なるほど車の影に隠れて、通行人や駐車場を利用する人からは見えない位置だった。けれど、マンションの住民からは居室から見えているはずだった。なぜ、彼女に声を掛けないのだろう。そもそもなぜ、怜美先輩はここに、悲哀な表情を浮かべて座り込んでいるのだろうか?


「先輩」


 私は声を発した――彼女は指で黒いアスファルトをひっかきながら、虚ろな目でこちらを見た。


「あれ、澄香ちゃんだ」


 生気の薄い声で、怜美先輩。


「どうしてここに?」

「それはこっちの台詞ですよ。夏とは言え夜は冷えますから、あんまり外にいると風邪ひいちゃいますよ。さあ、おうちに帰りましょう」

「帰らない!」


 怜美先輩は大きな声を出した。絶叫に近かった。彼女の周りのどんより澱んだ空気が、急に殺気立った。


「ごめん。急に大きな声出して」


 その様子からして、家に帰れない事情があるのは明らかだった。ただしずけずけと、わざわざここでこうしている理由を確かめることはしたくなかった。怜美先輩は繊細な人だ。


「私にできることは、何かありますか?」


 それが、私の考えうる最適な話しかけ方だった。


「……何もないかな。澄香ちゃんにも迷惑だから、いいよ」

「私の迷惑を考えるなら、今そこでそうしているのを何とかしてください。気になって仕方ないんで」


 彼女は、確かに、と言って立ち上がった。服についたであろう土ぼこりを払うこともしなかった。


「たまに追い出される。マンションのみんなも、もうよく知ってるよ。お母さんの気分をちょっと害しちゃった。私が外出してるときに、私の部屋に入って赤本のページを開いたの。その写真を見て、怒った」


 私は怜美先輩の、折檻に慣れ切ったような表情を、そうであるからこそ眺めるのがつらかった。あの温和そうな翔太君の母親が、そんなことをするようにはとても思えなかったが、この様子からすると常習的に行われているのだろう。それなら住民が、なにも声を掛けないのにも納得がいった。みんな、また親子喧嘩が始まった、程度に捕らえているのだ。なんだか嫌な気分だった。


「あんたはうちの子じゃありません、って。私も、私が選んでお母さんの子供になったわけじゃないんだけどなあ」


 ただの後悔だが、前に先輩の部屋に入ったときの会話から、家族の中での疎外感を覚えていることは明瞭だったはずで、そのことへのフォローをしてあげなかったのは、いただけなかった。


「家にいて、心は休まりますか、気は安らかになりますか」

「休まらないよ。物心ついてから何度もこういうお仕置きされてたら、毎日気が気じゃないよ」


 怜美先輩は、まるで妄言のように、しかしはっきりとそう口にした。


「私、先輩が心から幸せそうに笑っているところを見たこと、一度もありません」

「幸せなんて、私がこの家にいる限りないの。仮にそれを得たとして、私は、借り物の幸せを味わっているだけ」


 私の脳裏には、翔太君の顔が思い浮かんだ。山本きょうだい似通った考え方をしているように感じた。要するに、自分に酔う。そうして、思い通りに行かない関係の鎖から、せめて自分だけでも守る、甘い麻酔を取り出して味わっているのだ。


「今日はどうするんですか」

「朝、お母さんがパートに出かけるまで、ここにいる。出ていったら、自分の部屋に忍び込む。そうしたら、お母さんがゴミでも見る目で私を眺めて、それで終わり。いつものことよ」

「じゃあいい時間まで、うちに寄っていきませんか。泊まっていってもいいですよ」


 怜美先輩の目が点になった。それほど突飛なことを言った自覚はない。むしろ、それが人としての道理だと思う。しばらく彼女は考えていた。そして、静かに首を振る。


「駄目だよ。迷惑だからとか、そういうのじゃなくて、私に関係のある人のところに泊まるのは、ちょっと耐えられないと思う」


 怜美先輩の目の色は、もはやこの世のすべてに絶望しているかのように濁っていた。


「私はきっと、澄香ちゃんの家族に嫉妬して、気が狂いそうになる――帰らなきゃいけないんだ。私は、私の家族の家に帰らなきゃ」

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