海と夜(4)


 学校に残って勉強をするという新堂君と別れて、私は帰路についた。行きと同じように、町並みから元気をもらえるのは、間違いなく彼のおかげだった。ほんの少しだけ、一緒に帰れはしないかと問いかけようとしたけれど、彼に迷惑だし、何より私みたいな容貌の優れていない女子と、いわば下校デートのようなところを目撃されたくはないだろうと考えた。


 マンションの駐車場に、見慣れた車があった。父親が今日中にこちらにやってくるとのことは事前に聞いていた。


 リビングのソファに、父親が寝転がっていた。


「おかえり」

「ただいま。お父さんもお帰りなさい」

「ただいまって、言うべきなのかわからないな」


 なんだかそのやり取りが滑稽で、私はついほおを緩めてしまうが、父親は複雑な表情をして黙り込んでしまった。


 九月一日からの、支店勤務のことに思いを馳せていて、案外私への応答も上の空なのかもしれない。私は父親に書ける言葉を、あらかじめいくつか用意していたが、それらを声に出すのをやめることにした。若輩者が口をさしはさむところではないだろう。父親は、テレビの電源を入れて番組を流していた。それを視聴しているとは言い難い様子だった。


「そういえば、今日細田さんがうちに来てな」


 父親は切りだして、餞別がわりの洋菓子セットをもらったと、机の上の紙袋を指さした。


「ちょっと怒ってたぞ。メールの返事が雑だって」

「うん、謝っておくから。これ、みんなで後で食べよ」


 私は紙袋の中身を冷蔵庫にしまった。着替えをしようと、自室に行こうとしたとき、父親はテレビの電源を切っていた。


「お前に初めてできた親友なんだから、大事にしなさい」

「私と唯奈とのことに、あんまりかかわってほしくない。そういうの、気持ち悪いよ」


 父親はきまり悪そうに、冷蔵庫に酒を取りに行った。それを母親が、まだ早いわ、とたしなめる声を聞きながら、自分の部屋に入った。制服から部屋着に着替え、ベッドに横になった。しばらく漫画を読んで過ごした。


 確かに唯奈には、そっけない返事を送り続けている。しかしそれは、ぞんざいに扱っているというわけではない。事実、唯奈とはこれからも仲良くやっていきたいし、夜眠る前、一緒に唯奈がやってきてくれていたら、とまぶたの裏に彼女を思い起こすことすらある。その気持ちを的確に表す二文字が『依存』であると、分かりすぎるほどに分かっていた。遠ざけたい気持ちがあるといえば、自らに嘘をついていることになる。


「優しくしないでよ」


 私はひとり、つぶやいてみる――あまりの安台詞に、自分でもくすりと笑ってしまう。ドラマの登場人物が、万策尽き、離れるほかない愛人に向けて放つ言葉。想像を膨らませていくとあまりに滑稽で、ついには声に出して笑ってしまった。私は唯奈の、なんでもないのに。そこから、いったん唯奈への想いを締め出して、漫画に集中しようとした。


 意識してもしなくても、常に脳裏にふわふわと漂っている存在が唯奈だった。自分でも、変化に気付いた。彼女のことを無視しようとすると、即座にある人の顔を思い出してしまう。その人は私に侵入してくる――似た感じ。唯奈に初めて声を掛けられた、あの時に似た感覚。


 気づくと私は新堂君のことを、唯奈あてのメールに書いていた。変に勘繰られるのは嫌だったので、性別は伏せて、できるだけ精密に彼のことを紹介した。自分でも驚くほど、彼の特徴がぽんぽんと思い浮かんで、メールの文章がすらすら書ける。


 唯奈の手を借りずとも、彼女に振れていなくても、やっていけるのだ、と示したかった。


 送信ボタンを押すと、ふいに眠気に襲われた。ベッドに横になると、布団が意識を奪っていくかのようだった。心地いいまどろみだった。私は居間から漏れ聞こえるテレビの音をかき消すべく、窓を開いた。波が砂浜を洗う、きめ細かく規則正しい音が、私の子守歌代りになってくれることを期待して。


 窓を開けると、マンションの駐車場が一望できる。男らしいその海の音が、部屋に飛び込んでくる――私は見慣れた女性を見た。

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