海と夜(1)
夏休み最後の金曜日。昨日は届いた合格通知書を見ながら、そろそろこの昼夜逆転気味の生活をやめて、早く起きる練習をしなければ、そう思って寝た。が、起きたのは見事に十一時だった。
今日も高校に用事があった。転校に関する手続きは済んでいるが、よせばいいのに、「粋な計らい」で、担任の先生たちとの顔合わせがある。それが、午後一時からの予定。私は大急ぎで母親の作った料理を平らげて、身づくろいをした。
忙しい時に、ベッドの横に置いていたスマートフォンが急に鳴りだした。
「もしもし」
「翔太だけど、今日遊びに来ない?」
「ごめんね、学校に行く用があって」
翔太君に電話番号を教えてから、毎日のようにこれだった。彼の電話の着信音で目覚めることも二回あった。毎回適当に断っていた。でに、本当は何もすることがないのだった。本当は遊びたかった。けれどどうしても、怜美先輩に顔を合わせるのが、難しかった。
「あ、学校行くなら、新堂君に会ったら? あんたと同じ高二だし、多分気が合うと思う」
「え、いいよ、相手も迷惑だろうし」
私にその気はなかったし、いきなり転校生の女子に声を掛けられて、相手も戸惑うことは間違いなかった。
「水泳の練習、してると思うからさ。俺からも連絡しとくから!」
あまりに強引な言い方に、私は少し頭に来て、
「ごめんね、忙しいから。また今度ね」
そう突っぱねて電話を切った。もう一度着信が来たが、無視すると、それ以上は電話がかかってこなかった。
制服を着て、支度が終わったので――家の前に翔太君が待ち構えていないか、恐る恐る玄関の扉を開ける。誰もおらず、ほっとする。学校まで、ここから歩いて十五分ほど。海と反対の方向へ、まっすぐ歩いて、路地を抜けて大きな通りに出る。この町で一番栄えているエリアらしいが、あるものといえば、チェーン経営の喫茶店、本屋、スーパー、車の用品店、――そのくらいだった。どうやらこの町に、映画館はないらしい。それは高校生活を送るうえで大きな痛手だ。
けれど、私はこの、建物の奥を見ると澄んだ空がたっぷりと見え、お店の隣の空き地に雑草が群生する景色を、心からきれいだと思った。背の低い建物に囲まれる生活。それは落ち着きがあって、どっしり根を下ろしているみたい。この町では強い人間の息吹をすぐそばに感じるし、同時に自然の圧倒性、有無を言わさぬ強さも介在していた。それを自在に変化させることなど、まるで初めから考えていないかのようだ。
大通りを五分ほど歩いて、細い道に折れて少し歩いたところに、高校がある。編入試験の日に初めて見た校舎は、お世辞にもだいい印象とは言えなかった。――が、一晩寝ているときに考えたのだが――皆が使った跡をそのまま残してある、というか。使い古したことを露わにしている感じがあって、上塗りをして誤魔化すよりは、いっそ清々しく思える。
私は、そこだけきれいに取り繕ったような来客口から校舎に入った。時間は一時をややオーバーしていたので、そのまま階段を上って、一学年に一つだけの理系クラスである二年三組の教室へ行く。ドアの鍵がかかっておらず、担任の先生がもういて、教室のなかで日が刺すあたりの学校机についていた。
「どうぞ座って」
向かい合わせで置かれた机をさし、その女の先生は私に声を掛けた。鳥が鳴いているような高い声だった。かなり若そうだ。
「担任の浅田です」
きわめて形式的に、よろしくお願いします、と返して、私は机の上に広げられた書類に目を通した。その説明をしている、若そうな浅田先生はまごついていた。編入生を受け入れたことがないのだろう。特にかまわなかった。事務的な手続きなどの説明が終わって、先生は雑談として、いろいろ尋ねてきた。前の学校でどういう生徒だったのか、探りたかったのだろうか。適当に、おとなしいほうでした。と返す。しかしこちらの生活には慣れた? という問いには食いついてしまい、ここに来るまでに考えたことについて熱弁をふるってしまった。
「私も実はここ出身なのよ。先生になって二校目の赴任だけど、ここに来れてよかったわ」
浅田先生はえくぼをだして笑った。彼女も、この町が好きだというなら、すぐに意気投合できそうだった。若そうだし、高校生の気持ちから年代的に離れてもいないだろう。
「まあ、みんなほかの都会のほうへ進学なり就職なりしちゃうのは、寂しいかな」
「そうですよね」
田舎で育った若者たちは、都会にあこがれる。当たり前といえば当たり前のことだった。私は好きだけど、みんなは違うんだなと、浅田先生の嘆きを特におおごととはとらえなかった。
先生は続けて、
「今日これから、クラブ見学に連れていってあげることができます。うちには残念ながら前入っていた科学部はないけれど、見学したいクラブはありますか?」
そのとき私はクラス名簿にある、新堂直輝、という名前を見ていた。同じクラスなんだな。私は、しばらくぼーっとしていて返事を返すのを忘れていて、慌てて、入りたいクラブは今のところ特にありません、と答えた。
「まあ、そうよね。クラスの皆と仲良くなってから、決めればいいよ」
そうか、クラスの皆、と考えた。浅田先生の言葉は、なんというか不意打ちだった。私は、新しい環境に、この学校に溶け込まなければならないのだな。私の中で、なにかどろりとした、不思議な感覚が、お腹のあたりに渦巻いて気分が悪くなった。今のところ、この町が新鮮に感じている。それが、当たり前になるということ。編入試験の日にも、覚えた感覚だった。
「明日、始業式の終わった後にクラスの皆と初対面。そこで自己紹介してもらって、私からも少し紹介しますが、なにか気を付けたほうがいいことはありますか?」
「えっと、紹介の時に何かしてほしいってわけじゃないんですけど」
私は、話さなければならないような気がして、自分の不登校の過去を、努めて昔の出来事で、それを克服したことを強調しながら先生に説明した。
「もう、大丈夫なんですけどね、ホントですよ」
先生はつらかったわね、と一声かけ、なにかあったら言ってちょうだいね、と返してきた。自分の中でその、当たり障りのない返答がしっくりこなかった反発から、私は今度はしっかりしよう、そう思った。慈愛に満ちた唯奈の顔を思い浮かべたが、すぐに取っ払おうと頭を振った。
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