海と血と儀式(4)


 彼の口から、言葉が、驚くほどすらすらと出てきていた。


「こうやって、悪い血を抜いてんの。それで、潮の流れに乗って、優しい姉ちゃんの血が戻ってくるんだ」


 彼は、海を眺めた。私は彼にかける台詞を山ほど思い浮かべだが、口に出さないようにした。彼の中で、その行為に理由があるのであれば、それはそれとして認めなければならないと考えたからだ。私は彼が波の音を耳にしようともしていないだろうという誤解を、胸の中でそっと訂正した。


「姉ちゃんも俺が切ってること、知ってるだろうけど、今しゃべった内容は内緒な。って、まあ、もう引いただろうね。もう、関わるなよ、俺たちに」


 この弟が姉に抱く好意が、歪んだものであることは間違いなかった。


「海に対して、それは失礼だと思う」


 必死にため込んでいた器から、少し言葉があふれたように、私はついそう言ってしまった。


「……意味わかんねえ」

「ごめんなさい」


 私の頭の中は、謝罪をしなければ、という思いでいっぱいだった。


「でも言わせてほしいの。いくら腕を切ったところで、翔太君が生まれた事実が変わることはない。いい、生命は海から生まれたの。私たちの祖先はアメーバの体だったんだよ。そのころから代々受け継いできた生命を傷つけるのを、海に対して簡単に見せるなんて、自然に失礼だよ」

「……面白いね」


 しばらく沈黙したのちに、ぽつりと彼はつぶやいた。腕の傷口からどくどくと血が流れるのを、ぼんやりと見ながら、


「来年高校、多分あんたがこれから通うところを受けるんだけどさ。プールの授業があるのな。――それはなんか、いやでさ。この傷見せたくないって言うか。周りなんてどうだっていいはずなんだけどね。なんか、ぼんやりそう考えてたの、思い出した。なんか、それはそれで姉ちゃんが悲しむかなって思う」


 彼はそこまで話すと、リラックスしたように肩を落とし、やっぱり気持ちよくなかったな、などとぶつぶつつぶやいていた。


「飯の時、姉ちゃんが俺に言ったよ。泣いたのはあんたのせいじゃないって」

「私をここに呼んだの、なんでかな?」

「いずれ分かることだから、早いうちがいいだろ?」


 彼が私を誘った理由は、本当にそれだけなのだろうか。


「でも、ごめんね。私はお姉さんを傷つけた。昔のこと、いっぱい聞いてしまった。お姉さんと翔太君が腹違いだってことも、話を聞いて分かった」

「あ、そうなの? 親しい近所の人たちはわりと知ってるけど、できるだけ黙っていてくれよ」

「もちろん。――でも、どうして秘密を、私に教えてくれたのかな」

「教えても大丈夫って思った人には、姉ちゃん案外話すから――あんたが信頼に足るってことだろうな、なぜかはともかく」


 それ以上の答えは期待できそうになかった。言葉の接ぎ穂を探しているうち、ふと本題を思いついたように、


「とにかく、気持ち悪いと今思ってるなら、離れてくれればいい」

「私はね、勝手な話だけど、あなたたちきょうだいから離れるつもりは少しもないんだ。引く、というより、むしろ仲間だな、って思ってる」

「何が分かるんだよ」

「それは、確かにそうだね……何もわからないかもしれない。でも、分かりたい、仲良くなりたいって思ってるんだ」


 私はそこで、海のほうを向いて、やっぱり少し恥ずかしいな、などと考えながら、おもむろに、スカートの裾をまくり上げた。彼にそれを分かってもらうには、そうするのが一番だった。


「おい」


 翔太君は耳を真っ赤にしているものの、私が晒した部分を凝視していた。はしたない行為だと分かっている。こんな醜態は、今回限りにしたい。


 私は彼に、太ももの付け根にある青くなったあざを見せつけた。何度も何度もたたいて、できた痕だった。スカートをかなりまくり上げているので、下着まで翔太君には丸見えだろうけれど、彼もそちらをチラ見することなく、吸い込まれるようにあざに見入っていた。


「こんなことしてるから、翔太君に同情しようなんて言うつもりはない。悩みは人それぞれ違うから、完全に分かってあげることはできない。でも……本当に誤解を恐れずに言うなら、一緒にいたくなる。自分を傷つけてしまうという、同じ特徴を持つことで」


 翔太君はしばらく、私の青あざに夢中になっていた。私の言葉も、ほとんど耳を通り抜けてしまったかもしれない。あまりじろじろと見るものだから恥ずかしくなって、


「変態」

「あんたが見せてきたんだろうが」

「そうだけど……」


 私はスカートを放し、しわを伸ばしてから、家に帰ることを提案した。彼は「離れてくれないんじゃ、仕方ないよな」と言って、うなずいた。


 例のじめじめした道を歩きながら、翔太君は、


「海に失礼とか、人のこと言えないくせに」


 と言った。翔太君の声色は、どことなく私に、それを否定してほしそうな感じだった。分かり切ったことを確認する風、というか。


「昨日もやろうとしたけど、我慢したんだって。これからもしないよ」


 翔太君は、心なしか笑ってくれたように見えた。


「……四か月」


 咄嗟に言ってしまい、訂正することもできず、私は続けた。


「四か月で、人間の血液はすべて入れ替わるの。新しくできた血になる。人の血液っていうのは遺伝するもので、もちろん科学的にもそうだけど、人間的にも、切り離せなくて、あなたのお母さんの血をいくら抜いたところで、四か月後にはもとの血が流れることになるんだよ」

「そんなの、それまでになんども切ってしまえばいい。姉ちゃんの血に変えてしまえばいい」

「そうかも」


 翔太君に、すぐに変わってほしいなんて期待していない。いずれ分かることだと思うし、この先も苦しい時はここに来ることがあると思った。それでも、人から自傷について意見を言われるのは――姉のように、肉親を除いては――初めてだろう。それが、何かしらの影響になってくれればいい。ならなくても、それは自己満足ができたことになるから、もうそれでいい。


 初めから、寄り添うだけ。それだけが目的だった。


 マンションまでたどり着いた。彼は別れ際、電話番号を教えてきた。ついさっきまで、私に避けられたがっていた人が、連絡を取りたいと申し出ているのが、悪い気はしなかった。


 私が玄関のドアを開ける前、


「――あんたの傷跡、なんか、綺麗だったよ」


 なんて言うから、褒められているのか何なのか分からないが、ドアが閉じられてから、少し赤面してしまった。

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