海と血と儀式(3)


 昨日に比べて気温は高く、風も弱かった。ちらほらと、海を見物しに訪れている人を見かけた。


 一目ぼれのまどろむような惚けからは醒めてきて、そちらを見るときに正対できないほどではなかった。まだ少し、照れはある。その程度に、海は私に心地よい高揚を与えてくれた。


にぎやかで、優しい雰囲気を纏う人々の中で、長袖のTシャツを着た彼は目立っていた。


 翔太君は私の姿を認めると、不機嫌そうな顔をした。そして私に一言もかけないまま、浜辺を奥の茂みへと進んでいった。私が必ず後を追いかけると知っているかのようだった。実際、ここでやめにして、家に帰ってもいいのだろう。


 そもそも、彼の誘いに乗らなくてもよかったはずだ。私が姉を傷つけたという誤解を抱かせたまま、妙な因縁をつけているようなものだから。しかし彼に私はついていった。親同士の付き合いもあるし、今後も顔を合わせるだろうから、気まずい関係にはなりたくなかった。


 翔太君は地面が砂浜ではなくなってもずんずんと進む。日差しを遮る木々のせいで湿っぽくなっている土を、力強く踏みしめていった。立ち入り禁止の立て看板を無視して、さらに先へ。


「そこから先は入っちゃだめ」

「いいから」


 そこからますます彼の足取りは早くなっていった。何かに焦っているのだろうか。


 茂みを抜けると、全長で五百メートルぐらいの隠れた砂浜があった。まるで昔の秘密基地――私はその遊びを一度もしたことはないが――のようで、海が一層映えていた。


「ここ、姉ちゃんと俺しか知らない秘密の砂浜」


 翔太君はようやく私のほうを向いて言葉を発した。もちろん街の人にはここの存在を知っている人もいるだろう。二人しか知らないということはないのだろうが、私たちが、海を独占しているかのような思い上がりをふいにしてしまった。


 そして、砂浜を一目見て思った疑問を私は素直にぶつける。


「あの石は?」

「置いた」


 彼は平然と答えた。砂浜のちょうど真ん中に、計算したかのように置かれたその不自然な石が気になったのだった。ボウル大のサイズで、一方の端が高峰の鋭い尾根を思わせるほどとがっている。運ぶにも一苦労しそうだった。


 近くへよった。翔太君の影で、石に注がれていた日差しがさえぎられた。顔がくっきりと見える距離まで彼に近づいた。ここにこれを置いた理由を尋ねようとしたそのとき、翔太君はTシャツを脱ぎ始めて、私は手で顔を覆った。


「何恥ずかしがってんの。下に服着てるって」


 指の隙間からのぞき見、半袖のTシャツを着ているのが分かって私は安心したが、その後、気づいた。彼の腕にはすぐにそれと分かる、傷跡が残っていることに。


 腕の伸びる方向に対し垂直に、十数本も並んでいる自傷の痕は、紫ともピンクとも取れない色にただれていた。傷の治り具合からして、常習的に自らを傷つけていることは明らかだった。


「引いた?」


 翔太君は目をうつろにし、心なしかはにかみながら私に言う。身じろぎも受け答えもせず、私はただぼんやりと彼の腫れた両腕を眺めていた。自らが気にいらなくて、罰を与えた証。懐かしみを含んだ感覚に、意識が向かっていた。


 彼は焦れたように貧乏ゆすりをはじめた。いらだちの理由は多分、私にとって差し迫ったものではない。きっと異様な両腕のありさまを見せつけて、動揺させようとしているのだろうが、残念ながら私は彼と同類だった。


「引けよ」

「引かないよ。そういうときもあるよ」

「意味わかんねえ。さっさと引いて、俺たちから離れていってよ」

「離れてほしいの?」

「それは、だって」


 言葉を切って、彼は石に注目した。彼の視線の先に目をやると、何か赤い液体が付着したような跡があった。なるほど、と思った。


「ちょっと太陽が弱いけど、今日はこれを見せるために誘ったんだ。今からちょっと見せるから」


 そう言うと、彼は石の特にとがった部分に右腕を伸ばし、当てがう。一瞬の躊躇いののち、彼は腕を石に擦り付けながら、一気に自分のほうへ引き寄せた。


 人が自傷するところを初めて見た。彼の中で、それは眼前の――広い海の何十倍も、大きな出来事なのだというのもわかった。しかし私の目にはそれが、極めて地味な行為に映る。なんと自己愛に満ちた、矮小で、卑屈な行為なのだろう。私はその行為を目にしながら、強くて、それでいて包み込むような安らぎを与える波の音を聞いてうっとりしていた。彼の耳には今、それは届かないのだ。


 血が、申し訳程度に岩の表面から滴り落ち、翔太君は、今度はまるでその裂傷の痛みを味わうかのようにゆっくりと腕をこすりつけた。


「あんまり石が熱くないな、今日は気持ちよくないや」


 私は砂に吸い込まれていく彼の血液を眺めながら、かける言葉を考えていた。心の中で、彼に大いに反発する気持ちが沸きあがっていたけれど、それを口にするのは絶対に駄目だと思った。もし自分がそうされたなら、私は私を保てなくなるからだ。


「なにをしているの」


 私は言った。


「ちょっとした、儀式かな。変化の儀式」


 どことなく、恥ずかしさを表情ににじませながら、翔太君は言った。


「ちょっとずつ、俺は血を抜いていかなきゃいけないんだよ。姉ちゃんが悲しんだときさ、俺はいつも、自分の血が嫌になる。姉ちゃんに優しくしない母さんが嫌いでさ。その腹から生まれた自分も、嫌いだ」

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