海と血と儀式(2)
「それは悪いですよ。先輩の受験勉強の邪魔はしちゃだめだし」
「ありがとうね。でも、もうやることないから」
「あはは。夏休みも終わってないのに、勝利宣言ですか? しかもK大」
「……ま、あんまり言っちゃなんだけど」
少しためらうように間を取ったのち、
「もっと上のレベルの大学、目指そうと思えば目指せるから」
なんと言っても自慢にしか聞こえないことは承知の上で事実を述べているのだと感じた。そしてそういう言い方に、慣れている風だった。
「それなのに、なんでK大を受けるんですか?」
「私が生まれたところだから、かな。ノスタルジーってやつ?」
「あ、そうなんですか。東京で生まれたわけじゃないんですね」
「そうだね……」
怜美先輩が目を伏せると、まつげの長さが際立つ。その様子は、私の脳裏のイメージ――海を前にした憂いの表情と重なって見えた。
「いろいろあって、引っ越しは二回してるの。小さいころに……ここに来たのは小学生の時」
目の焦点が、徐々に定まらなくなってきていた。まるで我を忘れているかのように。
「それ以上、言わなくてもいいです」
虚をつかれたようにはっと息をのむ怜美先輩。
「どうして?」
「辛そうだから」
「どうしてそれがわかるの?」
「詳しいことは分かりません。けれど、先輩、寂しい顔をしてます。できれば言いたくないことを無理して言おうとしているような……そんな気がします」
「それは、辛いけど……辛くても、私は話したいの。私は話したくなった」
私としては、話をしてほしかった。けれど話すために頭であれこれ考える、その間に昔の記憶が押し寄せてきて、怜美先輩の辛い気持ちに拍車がかかるだろう。私は返事を返さずにいた。
「澄香ちゃんは、分かってくれそうだって、昨日も思って。なぜだかわからないけど話したくなって、ちょっと意味深なこと言ってみた。けどやっぱり迷惑かなと思って、やめたの。澄香ちゃんは引っ越しでこっちに来て、その辛い気持ちをちょっとでも分かってくれるかなって期待しちゃったんだ。事情も環境も違うのに、バカだね」
「……なんとなく、その気持ちは分かります」
自分との共通点を見いだせたから……他人との初めての接触というのは、やはりそこに発端があるものだろう。そして、心のうちのナイーブな部分に属する性質を、幸運にも他人に見つけ出した場合には、より密な交流を望むのだ。
怜美先輩は突然に机の上に置かれたK大の過去問を取って、しおりを抜いた。
それは一葉の写真だった。
「これ、私のお母さん」
海をバックにして、こちらを向いて微笑んでいる白人女性の写真。彼女の鼻立ちなどから、それが怜美先輩の母親であることは間違いなさそうだった。
「ロシア人なの。私はお父さんと、この人との間に生まれた子」
そう言った怜美先輩の表情は、吹っ切れたように明るくなった。
「小さな頃、この人は私と父を置いて家を出ていった。ロシアに帰ったの。けれどそれは結構最近のことで、しばらくは日本に住んでいたみたい」
「それが、K市だってことですか……」
カンがいいね、と怜美先輩。K大学に受かったら、さすがにここから通学するわけにはいかない。先輩はK市に住んで、幼いころいなくなった母を探そうというのか。
「会いたいんですか。当ては、あるんですか」
「当てなんてない。お父さんだって、この人がK市に住んでいることしか知らなかった。どうも仲たがいをして離婚したから、関係も途絶えているみたい」
「なら……忘れたらどうですか」
「忘れられないよ。だって、同じ血を引いているんだもん」
血、という言葉を聞いた瞬間の、切ない怜美先輩の表情に、私の胸も痛んだ。この気持ちは、おそらく、同情。切っても切れない、忘れたと思っても纏わりついてくる、繋がり。
「私を捨てた理由とか、聞きたくもないんだけど、でも……」
捨てた、といった瞬間、怜美先輩の唇がわなわな震えだした。
「なんというか、この人が日本で残したかかわりが、少しでも知りたくて。そんなこと知ったところで、虚しさが増すだけだってわかってる……けど」
「もう、大丈夫ですから。それ以上言わなくてもいいですから」
優しいね、と涙をこぼしながら言う怜美先輩の背中を、私はぽんぽんと叩いた。大粒の涙が、私の洋服の肩に染みていった。
「姉ちゃん、飯だぞ……」
そこへ、ノックもせずに翔太君が入ってきた。姉の泣き崩れる姿を見て、これまでの態度からはちょっと想像もつかないような慈しみの表情を浮かべ、その後私に、敵意に満ちた視線を送ってきた。
私の母親はもう食卓についていて、少しは遠慮をしたらどうかと問い詰めたくなったが、怜美先輩たちのお母さんが優しく微笑みながら台所から料理を運んでいるのでそこはよしとする。料理の前で手を合わせ、食べ始めても、楽しそうに会話を交わしている二人の母親の様子に、つい昨日まで顔も知らなかった相手とは思えなかった。こういった風に、打ち解けるにはやはり、子供を持っているという共通点からなのだろうか。
私たちがダイニングに来たとき、私の母親が怜美先輩を心配した。
「目が赤いようだけど、大丈夫?」
「あ、ちょっと花粉で。大丈夫ですよ」
「うちの娘が何かいやがらせしたなら言って頂戴ね」
「そんなことないですよ。むしろ」
「姉ちゃん、正直に言っていいんだからな」
翔太君は姉のことを、普段は姉ちゃんと呼ぶらしかった。初日の彼女を嫌うような所作は微塵もなかった。
先ほど怜美先輩から聞いた事実を思い返すと、目の前の上品なおばさんについて気になった。父親が再婚したのだろう。果たして翔太君は、誰のお腹から生まれた子なのか。……いや、そんな詮索はとても無粋なことで、そんなことを考えてしまう自分が嫌になるけれど。
もちろんそれを尋ねるのは失礼になるので、黙っていた。食べ物を箸でつかむ。手の込んだ料理で、おいしかったが、食事を楽しむほどには緊張がとけなかった。広いダイニングが、小さな四畳間ほどに感じられた。
席に着いてからずっと、翔太君の軽蔑心のこもった眼差しが痛かった。
「翔太君、どうしたの」
と問いかけると、唇をむすっと引き結んでしまう。明らかに、私を嫌がっている様子だった。
怜美先輩を泣かせた。翔太君はそう誤解しているのだろうが、私は怜美先輩を傷つけてなどいない、とも言えなかった。怜美先輩の過去を掘り返したのは私だともとれるからだ。
母親は、私たちのぎすぎすした雰囲気に気づいてはいるようだった。が、口を挟まず、怜美先輩たちのお母さんと談笑したり、料理に手を付けたりするだけだった。
どうもおかしいな、と思う。
怜美先輩の母親が、これまでずっと怜美先輩を心配していないのだった。そういう家族といってしまえばそれまでなのだが、それにしても、その赤く腫れた目もとを見ることすらしないのは異常だと思えた。
食事を終えて、食器を片付けているうちに、翔太君は私に耳打ちした。
「この後、三時にあの海辺で待ってるから。絶対来いよ」
私の返事を待たずに、翔太君は自分の部屋に戻っていった。
その後、私はなおも沈んだ表情をしている怜美先輩に声を掛けた。
「ごめんなさい。昔のことを掘り返してしまった、私が悪いと思います。翔太君もそれで怒ってるんですよね」
「ううん、そうじゃないの。また、声を掛けてくれるなんて、やっぱり澄香ちゃんは優しいね」
一生懸命に作られた先輩の笑顔は、とても見ていられないような脆いものだった。
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