海と憂鬱(1)
初めて自然に恋をした。
冷房をかけて窓を締め切っていた車のドアを開けたときに鼻についた潮のにおいに、どうしようもなく男らしさを感じた。本当に海が近くに来たのだ、と胸が高鳴った。
十七年ほど東京というコンクリートの街で過ごしてきた私には、刺激が強すぎるかもしれない。それで、いまマンションの窓からそちらを向けば海は見えるのだが、意識してみないようにしていた。どうしようもないくらいやばい。言葉を失う。
私は冷静になり切れていない頭で考える。初恋というのはえてして実らないし、後々振り返ったときに、なぜあんなに夢中だったのだろうと不思議に思うと聞く。初恋は永遠に「初恋」という記憶になるものだという。そんなのは、知らない。第一、海は逃げない。初恋を終わらせる権利は私にしかないのだ。それなら、私は一生この海を好きでいるつもりだ。
なにせ、まだ高校が始まるまで、二週間もある。その間暇で仕方がない。確かに、編入試験があるにはあったが、学力に心配はない。二学期が始まるまで、毎日少しずつ楽しめるな、しめしめ、と思った。
マンションに引っ越し業者がやってきた。荷物を運び入れている間、邪魔になるからということで、私は支度する間もなく家を追い出された。
午後一時だった。さっきおにぎりを食べたから、お腹が空いているわけでもないし、そもそもどの辺りに料理屋があるのかも分からない。適当に町を見て回ろうと考えるも、私を潮のにおいが誘惑した。
行ってしまおうか、海に。ここから防波堤を超えて、海まで五分もかからない。でもでも――お化粧もおしゃれも何もしていないし。などと考えて、マンションの表の道を何度も往復した。
「何してんの」
そう、誰かがいたら、私にそのように声をかけるはずだった。――今声をかけられた気がする。慌ててそちらを振り向くと、私と同じマンションから出てきたらしい男子が立っていた。歳のほどは、中学生くらいだろうか。
「何してんの」
「いやーちょっと、どこ行こうかなーって」
「案内しようか? この町。引っ越してきたんでしょ」
声の掛け方は非常に自然だった。顔も薄い感じで整っていて、正直モテるほうだろう。いろんな女子と遊んでいるタイプだろうか。けれど、着ている服は英字プリントのよくわからないTシャツ――しかも長袖で、袖と身ごろの生地の色が違う――に、まくると裾からチェックの柄が見えるタイプのチノパンと、はっきり言ってダサかった。
「いや、結構です。そうだ海の風にでもあたってこようかな」
そう言って私は彼に踵を返し、歩き始める。
「奇遇だね。俺も海を見たくて家出てきたんだよねー」
たちの悪い人だと思った。
「ま、同じマンションの住人ということで、仲良く一緒に行こうや」
「わけが分かりません。迷惑です」
私が歩み始めると、おっと、といいながら早歩きで隣に並んできた。逃げようとしても、そちらは間違いなく海の方向だったので、早くいくことも躊躇われた。心の準備ができていなかった。
「どこから来たの」
にやり、と笑うと、彼は途端に悪戯好きそうな顔になった。適当にあしらって、つまらない女だと思わせて早く解放されよう、と考えた。
「東京です」
ほー、都会の人か! と彼は目を輝かせた。
「渋谷とか、新宿とか?」
「そんなところは裕福な家族しか住めません。郊外です」
「東京か、そうかそうか」
人の話を聞いていないな、と思ったが、そもそも話を聞いてほしいわけではなかったから、突っ込みを入れないでおいた。
「なんでこんなところ、引っ越してきたの」
「父の仕事の都合で」
私が視線をやったその時、誰かに驚かされたように、彼は急に後ろを振り返った。
「やべえ、姉ちゃんだ。じゃあ俺逃げるから! バイバイ!」
姉ちゃん、と呼ばれた女性が少しずつ近づいてきていた。隣を見るともう彼はいない。音もたてず、どこかに忍び込んだのだろう。手際の良さは常習犯のそれを思わせた。
「ごめんなさいね」
女性は私に深く頭を下げた。
「頭を上げてください。大丈夫ですから」
「人に迷惑をかけることしかしないんです、うちの弟は。本当に、ごめんなさいね」
女性は顔を上げた。弟には似ず、まるでモデルさんのように際立った鼻と、澄んだ瞳の持ち主だった。とっくに成人しているだろうと思った。
「あなたも、あの子と一緒に住んでいるんですよね! 私、同じマンションに引っ越してきたので、よろしくお願いします」
「あ、松野さんなの? よろしくね」
急に私の名前を呼ばれて、思わず背筋を正してしまう。
「松野澄香です。よろしくお願いします」
ひとまず名乗っておく。名前を呼ばれるのは、あまり得意ではないので、教えたくないのだが。
「山本怜美だよ。よろしくね!」
にこりと言われて少し委縮する。こんなに綺麗な人に微笑みかけられると、誰でも緊張するだろう。男の人だけではない。
「そうだ、歓迎会しましょって、そういう話出てたのうちで。明日にでもおうちおいでよ、みんな歓迎するから!」
強引なところは、弟さんと変わりなさそうで、私はなんだか笑ってしまった。
「ありがとうございます。今日は海に行きたいんです」
「あぁー、そうだったの! 場所は分かる? 案内してあげようか?」
「お忙しいでしょうし結構ですよ」
「あ、私なら暇だから! あの馬鹿弟にかまっていられるくらいには」
目鼻立ちが上品にまとまっているのでどうも近づきがたかったが、そう言われてすごく親しみがわいた。私は彼女が黙って歩き始めるのに、歩調を合わせた。
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