私の中和
綾上すみ
第一部
プロローグ 海を日記につづるならば
山並みのでこぼこの上を縄がのたくるように舗装された道が、かれこれ三十分ほど続いていた。父親は車を運転しながら、
「酔わないか?」
何気なしに私にそう聞いた。私はうなずきを返すけれど、お昼にとコンビニで買ったおにぎりには手を付けられずにいる。めまいを覚えながら、私は生まれ育った地が都会だったことを嫌でも思い知らされた。峠を二つ超えた先に引っ越すのだが、一つ目の峠を登るところでここまでつらくなるとは予想外だった。
外の景色は一様に緑で、自然の風にあたろうと開け放った窓の外から、聞こえる音といえばセミの鳴き声ぐらいで、それがまた暑さを思い起こさせて気分がさらに悪くなる。車の前にも後ろにも、車両は見当たらない。
父親の転勤。家族を持っていることを考慮されて、なお業績不振を認められたことでの、地方転勤だった。大学時代の後輩でもある母親が父親に文句を言えるはずもなく、まだ十七歳の私は社会を知らないのでそもそも業績が悪いといわれてもよくわからない。
父親は必死で会社に抗弁した。数年後にまた、東京に戻すという条件を不承不承飲み、転勤は確定した。ちょっとした地方旅行にしては、数年は滞在期間が長すぎた。けれど、東京勤務は限界に来ていたのだろう。毎晩のようにストレスを抱えて帰ってくる父親。彼が夜帰って酒で自らを慰め、母親などに泣き言を言うさまは見ていられなかった。
父の威厳とか、そういうものの欠落を感じたからではない。毎晩のように自分を殴ってしまう私は、父親の血を受け継いだのだと自覚してしまうからだ。
「お父さん、眠くならない?」
「ああ、大丈夫」
心配性の母親が、助手席から父親にそう声をかけた。ふと眠くなるといけないから、としきりにガムをかむことをすすめていた。
上司に対し何とか転勤を避けたいと言い続けていた時の父親は特に荒れていた。でも業績が悪いですよね、あなたにそんな文句を言う資格があるのですか? とでも返されたのだろう。そのときの父親の消沈ぶりはとても見ていられなかった。胃薬を日本酒で流し込んでいたほどだ。
――心の療養だと思って、行こうよ。
母親はそう言ってなだめた。最終的には、彼女に助けられたという態になり、父親は彼女に泣きついて感謝した。その様を見てもなお、父親に嫌悪感を抱かないのは自分でも不思議だった。
最近、心の療養というのは、父親だけでなく私にも向けた言葉であったかもしれない。そう考えることが時々ある。考えすぎ、と自分でも思うが、それでもあの環境の息苦しさは嫌になる。
一つ目の峠を越えたところは盆地だった。私の顔色を見て父親は笑い、コンビニに車を止めて少し休憩することになった。しばらく外の風に当たると楽になって、ようやくスマートフォンの画面を見る。唯奈から、メッセージが届いている。いつでもまた、東京に遊びにおいで。彼女に会うというだけであれば、私は一向にかまわない。正直、今すぐにでも会いたい気分だ。ただ、東京に戻りたくはない。
高校というところは非常に息苦しく、普段集団で行動するがゆえに二人で遊ぶということがなかなか難しい。誰かと遊ぶと、噂が立つ。どうして私も誘ってくれなかったの、同じグループの友達にそういわれて面倒なことになったのは一度や二度ではない。
みんなが仲良く、などありえないし、ある一人と顔を突き合わせて話したいことだってある。けれど周りは、群れること以外を知らないのだ。あるいはそうやって群れること自体を渇望しているのかもしれない。そういった人々が集まったのが東京だ。私たちは群れを欲しがった親の血を受け継いだ子。
唯奈に返すメッセージを、少し考えた。長文を書いてすべて消し、結局、また遊ぼう、としか送れなかった。
一つ目の峠に比べて、二つ目はややなだらかだった。山道のアップダウンに、体が慣れてしまったからそう感じるだけかもしれない。退屈な舗装に、がけ崩れ対策のコンクリートの模様などをぼーっと眺めて、おにぎりを食べた。
峠のてっぺんを超えると、建物の群れが俯瞰できた。その奥にある、暑い日差しを白く照り返しているそれは、東京で見るそれとは段違いに立派で、また勇壮で優雅だった。ここからでも、その荒々しい潮騒、またそれに同調するかのような海鳥の啼き声、また浜風の吹きすさび、などが聞こえてくるようで、胸が高鳴って仕方がなかった。
「綺麗ね」
母がそう漏らすのに、私は全力で同調した。山道の退屈から一気に解き放たれる感覚が背筋を駆けていき、私をこの町でずっと暮らしていくことになってもいい、という気にさせた。
この海に私の血を垂らせばあっという間に、波がそれを包み込み、赤色が溶けて消えていくに違いない。どうしようもないことを、車の中でだらだら考えていたものだ。もしこのドライブを日記にしたためるのであれば、書くことはただ、海が綺麗だったということだけだろう。
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