海と憂鬱(2)



 防波堤が目の前に見えるまで、歩いて三分もかからなかったように思う。怜美さんに分からないように、私は唾をのんで、手串で髪の乱れを直した。


 いよいよ眼前に、それが広がるのだと思うと、本当に緊張した。心臓にすべての意識がもっていかれて、海に集中できないかもしれない。もう少し落ち着いてから――そういった葛藤を全く察してくれない怜美さんは、


「おーい、この階段をのぼるんだよ」


 と、私をせかす。私は震える足で進み、砂がまぶされた階段を一段踏み外して、何してるの、と彼女に笑われた。


 階段を上り切らないうちに、私が想いを寄せる自然が見えた。私は思わず、顔を両手で覆ってしまった。


 指の隙間から、そちらを見る。白い波を立てたしなやかな海が、砂浜に押し寄せてきていた。風に乗って流れてくる潮のにおいが、むっとした暑さに混じって、何とも男らしさを感じさせて素敵だった。


「感動した?」

「……」


 海の魅力にすっかりのぼせ上がってしまって、声が出せないでいた。海がこんなに――かっこいいなんて。


「初めて海を見た、みたいな顔だねえ。東京で海、見たことあるでしょ?」


 私は両手をおそるおそるおろして、海がなかなか直視できないので怜美さんのほうを向きながら、


「東京都の、東京湾しか見たことがありません。澱んだ緑の海しか」

「ほー」

「多摩のほうに住んでいたものですから」

「へー。――ここの海、ホントいいでしょ。この砂浜からの眺め、結構好きなんだよね私も」


 ふっふーん、と胸をそらせて上機嫌そうに鼻を鳴らす怜美さん。そのポーズが、形のいい大きな胸元を強調した。腰に手を当てたまま、サンダルでザクザクと砂浜を海のほうへ歩いて行った。私も、おずおずとついていく。


「何もない街だけど、海だけは自慢できるよ。こんなにきれいな砂浜と、こんなにきれいな海……ここで、あなたは暮らすのよ」


 浜風に髪をなびかせながら、怜美さん。


「……はい!」


 なんて偉そうだけどね、とはにかみ気味に笑ってみせた怜美さんは、急にしおらしく、可愛らしくなった。きりっとできて、ふにゃっと笑えて、女性の魅力てんこ盛りな人だ。


「東京から来たんなら――、○○峠からの海の眺めとか、きれいじゃない?

「分かるんですか!? ちょうどそっちから私たち、やって来て」

「まあ、昔私も同じように来て、綺麗だと思ったから」


 私は、懐古に浸る表情を浮かべる怜美さんの視線の先――青い海に視線をやった。あたりには、ぽつぽつと人がいるようだった。海辺にクラゲが打ち上げられていて、海水浴をしている人はいなかったが。


 すぐに気恥ずかしくなって、怜美さんのほうを向き直る。


「怜美さんも東京から来たんですか?」

「んー、まあ昔ね」


 あまりその話をしたくはなさそうだったので、海の話題をすることにした。


「それにしてもすごい美しいですよ! 海の魅力に一瞬で取りつかれて。なぜか海のことを考えるとドキドキして、さっきから緊張しっぱなしで」


 ついつい言葉に熱が入ってしまったことに気付いた時には、怜美さんの瞳から憂いのような色が消え、にやにや笑いを浮かべていた。


「まるで、恋してるみたいだね!」


 私は、立っていられるかどうか怪しかった。顔は真っ赤になっているだろうし、足がふらふらして仕方がない。そしてその後、


「うん。自然に恋をする……素敵だね」


 怜美さんは急にしんみりと、形のいい薄唇をぷるりと震わせて言った。


「私もね、たまに、洗い流してほしいことがあって一人で海を眺めに来るよ」


 真剣な表情のまま、怜美さんは続けて、


「私っていう意識が、少しだけでもいいから、海に溶けてなくなってはくれないかなって、思うんだ。そうしたら、どれだけ楽に暮らせるかって。私も海に恋してるのかもね。海に、私は抱きしめてもらいたいんだ……」


 少しずつ、彼女の唇が歪んでくるのを、私は見て取った。


「怜美さん……悩み事?」

「って、初対面の人にする話じゃなかった! しかもいきなり恋のライバル宣言しちゃってごめんなさい! 忘れていいよ! そろそろ帰ろう、ちかぢか歓迎会するから!」

「覚えてたんですね」


 さざ波の音が、私の後ろ髪を引いたが、マンションに向かっていく怜美さんは私を無理やり帰途につかせた。


 怜美さんはこちらに顔を向けなかった。泣いていたかもしれない。

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