★23時30分
「それでな、おれはそいつの足を踏んづけて掛けっこの一位になったんだ。そのときはさすがに後ろめたかったな」
「すごい話だなぁ。ノアは全然形に捕われないんだね。ノアはあれだ。卵界で言うところのスクランブルエッグだ」
「意味分からねぇし」
ノアとハンプは街の中心地を離れて、テムズ川の近くの河川敷の斜面に腰掛けいました。ノアたちがお尻に引いている植物は奇妙な葉を茂らせていましたが、川自体はなんの変化もなく悠然と流れています。
ハンプは鎧を脱いで、気持ち良さそうに眼を細めています。今日という怒涛の一日が終わろうとしています。
「なあ、ハンプ。お前はもうすこしで消えちまうのか」
「そうだね」
「おれさ。おまえにずっと側にいて欲しいよ。おまえがいたから、おれは自分が今までしてきたいたずらを反省しようと思えたんだ」
「ノア」
「寂しいよ。おまえがいなくなるなんて」
ノアは鼻を鳴らしました。いつのまにか、この世界に永遠にいられたらと願っている自分がいました。ハンプとなら、どんな恐怖の街であっても、笑って楽しくやっていけそうです。ノアの両眼から雫がこぼれてゆきます。
「だからさ。置いていかないでくれよ」
「ノア。ぼくはね、どこにもいかないよ」
ハンプは額に張ったままのホッカイロを愛おしそうに撫でました。そしてノアの涙を掬ったあと、濡れた指でノアの胸のまんなかを指差しました。
「ぼくはずうっと、ここにいるよ」
「おれの心の中に」ノアの声はふるえています。
「おまえは、ハンプはいてくれるのか」
「うん。どんなことがあってもそばにいるよ。だから泣かないで。ぼくたちはこの不思議な夜を渡り切った、無二の親友じゃないか」
その瞬間、街の広場にあった時計台が十二時を打ちました。ハロウィンの魔法が解けていきます。別れの刻です。
「ハンプ」
「ノア」
二人は最後の抱擁を交じわせ合いました。そしてハンプの輪郭は光の粒となって、季節外れの蛍のようにキラキラと輝きながら消えていったのでした。
光が眼の奥で点滅するなか、辺りを見渡してみると、そこはよく見る河川敷に戻っていました。ノアがもといた世界です。
無事生還して嬉しいはずのノアでしたが、その心にはぽっかりと穴が空いていました。それは卵形の穴でした。ノアは膝を引き寄せると、静かにズボンを涙で濡らしていきました。
そしてどのくらい経ったのでしょう。
ハンプを思い描いていたノアの肩をだれかが叩きました。ノアが泣き腫らした顔で振り帰ると、そこには黒いローブを着たジャック・オ・ランタンがいました。
「うわ!」
ノアは驚きのあまりバランスを崩し、斜面を転がっていきました。
「きゃあ。大丈夫」
「いてて」
ノアは河川敷の真下で動きを止めると、口に入った草や土を唾で吐き出します。打ちつけた膝や肘をさすりましたが血は出ていません。大事はなさそうです。
畜生、なんでハロウィンが過ぎたってのに、まだウィルの野郎がいるんだよ。
斜面を駆け下りてくるジャック・オ・ランタンを見て、すぐに気がつきました。こいつ、ウィルじゃねぇ。黒いローブ姿で身長はちいさく、顔はちゃんとついています。どうやらさっきは、その手にあるジャック・オ・ランタンを顔の位置に置いてノアを脅かしたようでした。
「だれだ、おまえ」
「ふふ。トリック・オア・トリート」
ふんわりとしたマカロンのような声で暗闇から浮かび上がったのは、なんとミサでした。ノアの心臓は否応なく高鳴ってしまいます。
「な、ミサ。お、おまえだったのか」
「ごめんね。ちょっと驚かそうとしただけなの」
ミサはぽってりとした手をノアのまえに差し出しました。ノアは放心したまま、その手を握りました。そこには指紋も線もあり、杏仁豆腐とは似ても似つきません。
二人はすこし気まずい雰囲気のまま、さきほどノアがいた場所に腰を下ろします。ミサはテムズ川を見ながら呟きます。
「今日ね、すごく良いことがあったんだ」
「おれは酷い目にあった」
「そうなんだ。だから泣いていたの」
「おま。そ、そんなんじゃねぇよ、馬鹿」
「それはごめんね」
そっぼを向くノアに対して、ミサはくすくすと笑っています。その自然な笑顔を見てしまうと、そんなに悪い日でもないかなとノアは頬を掻きます。そこで後ろの土手から懐かしい声があがりました。
「おーい、ノア」
「あれ。あそこにいるの、ミサじゃない」
ふりかえった先には、ハロウィンの格好で掛けてくるノアの悪友がいました。そしてその後ろにはミサの友達がいます。
「みんな、こっちこっち」
「あのさ、ミサ」
ノアがミサのローブを引っぱりました。
「どうしたの」
「今までずっといたずらとかしてきて、その、ごめんな」
ノアはそっぽを向きながらつぶやきます。それは初めてノアが口にするミサへの謝罪でした。ミサはその意味が当初分からず、首を傾げましたが、意味を理解してぱっと顔を輝かせました。
なんだか取っ付きにくいと思っていたノア。けれど彼は不器用なだけで、可愛い一面を持っていました。
「ううん。謝ってくれてありがとう。はい、これ。仲直りの印」
これからもよろしくねという意味を込め、ミサはそっぽを向くノアの手にあるものを握らせました。それは友達と家をまわったときにもらった、カタツムリのようにグルグル渦巻いたペロペロキャンディーでした。
手渡されたものを見て、ノアはぎょっとしました。
そしてみるみる顔をタコのように赤らめていきます。それこそが、この街のハロウィンに秘かに伝わっていた伝承にまつわる物だったからです。
好きな女性にキャンディーをもらった男子の恋は成就する。そういう伝承でした。
ノアはキャンディーを眺めて呆然としていました。ミサはというと、お菓子の包装をほどいてキャンディーを口に放り込んでいます。そして天使の笑顔で言うのです。
「美味しいね」
ノアは頭から湯気が出ました。ノアの無事に安堵するあまり、首や背中で泣きつく悪友たちの声も耳に入りません。
ですがノアが勘違いしていることがありまして、すでにこのとき二十四時の鐘は鳴り終わっており、ハロウィンの日ではありません。けれど浮かれているノアはその事実に、まったく気がついていないのでした。
こうしてノアは、ウィルに掛けられた魔法を解くことができましたが、ミサに掛けられた恋の魔法に苦しむ羽目になるのでした。
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