★21時10分

 そしてさきほど、もう駄目だとノアが観念した場面。絶体絶命のその瞬間、なにかがノアのまえに転がりました。


「駄目!」


 なにかが甲高い声をあげながら、ノアのまえで大の字になっていました。蒼い炎はすんでのところで停止しました。


 ノアのまえに転がり出したのはハンプでした。さっきまでつるんとしていた体は、なぜかところどころすり切れています。


「ノアは悪い子じゃないよ。ホッカイロをくれたもん!」


 満面の笑顔でふりかえるハンプ。さきほど横に張ったはずのホッカイロは、なぜか額のまんなかに張り変えられていました。


「だからウィル。彼を許して」


 ハンプの必死な訴えに、ウィルはなにも語りませんでした。ですがそこで一羽のコウモリがウィルの肩に止まります。そして羽をばたつかせながらなにかを伝えます。


「そうか。満腹か」


 そう呟くと、マントをひるがえしたウィルは忽然と姿を消しました。青い炎も消え失せています。そこで緊張の糸がほどけたように膝をつくハンプ。ノアは命の恩人に駆け寄ります。


「お前、俺を守ったんだな」


「へへ。ノアは僕の創造主だからね」


 ハンプの体は傷だらけでした。

 それはさっきノアが突き飛ばしたとき、そばにあった木々の棘や鋭い草の葉で切ったものでした。殻を脱ぎ捨て、むき出しになったハンプの体はとても傷が付きやすいのでした。


「なんで。こんな俺なんか放っておけば良かっただろう。馬鹿やろう」


「まあまあ。おたがい様ってことで。あ、駄目」


 額のホッカイロにノアが触れようとすると、ハンプはさっと額を押さえました。それでノアは気づきました。額の横にはうっすらと裂け目が走っています。


「お前、ここ。深く切ったんだな」


 ハンプはぎゅっと口をつぐんで立ちあがりました。そして言います。


「自分の殻に籠っていればね、痛い想いも怖い想いもしなくてすむ。けどね、僕は君に会いたかったんだ。ノアと友達になりたかったんだ」


 そしてハンプは手を差し出しました。ノアは想いっきり手を掴みました。指紋も線もなく、杏仁豆腐のようにつるんとしています。


「ノア、きみのカウントダウンはどうだい」


「すごい勢いで減っている。このままじゃ、すぐに時間切れだ」


「なんとかしないと」


 そこでハンプは空を見上げました。そして耳を澄ませます。


「どうしたんだ」


「しぃ!静かに」


 ノアが黙っていると、しばらくしてハンプは言いました。


「おそらく、ウィルは広場に戻ったね」


「広場って、あの時計台の」


「うん。稀代のピアニストであるウィルは、いつもそこでリサイタルを行うんだ。その時間が刻々と迫っている。だけど逆に言えば、そこにいけば必ずウィルがいる」


 ハンプはぶるんと体をふるわせました。


「行こう、ノア。そこできみはいままでの行いをしっかり反省するんだ。ウィルは話が分からない人じゃない。きっと許してくれるよ」


「でも」


「大丈夫だよ。ぼくも一緒にあやまってあげる。さあ、グズグズしちゃいけない。時計の針にはだれも抗えないからね」


 ハンプに励まされ、ノアは広場に戻ることを決意しました。最初は気味悪がっていたハンプでしたが、いつのまにかノアのなかで心強い道先案内であり、頼れる友になっていました。


 しかし丘を下ろうとして問題が生じました。


 ハンプはさきほどの怪我で早く走ることが出来なくなっていました。肌がところどころぐずつき始めています。


「ハンプ、おまえ」


「あとすこしだけ頑張っておくれ、ぼくの体」


 ノアは新しく芽生え始めた友情をまえに、自分の行いを深く反省していました。あんな粗暴なことをしなければ。ただひたすらに後悔の念でした。膝に手を当て、痛みに耐える表情のハンプ。


 ノアはそこで地面の草むらに膝をつき、さきほどまで垂らしていた腰元のサスペンダーの紐を肩に掛けました。


「ハンプ、これをにぎれるか」


「にぎれるけど」


「おれがお前を担ぐ。きっとそっちのほうが早い」


「だけど、いいの」


「もちろんだ。しっかり紐を体に掛けるんだぞ」


「分かったよ。だけどこんなことならダイエットしておけばよかったな」


 ハンプは恥じらっていましたが、最後にはノアの言うことに従いました。しっかりと体の曲線に合わせて紐を宛てがいます。けれど紐が強すぎてもいけないので余裕は持たせておきます。


 そうしていざハンプを担いでみると、羽のように軽いのでした。


「おまえ軽いな。それじゃあ行くぞ」


「うん。この締めつける感じ、まるで出荷されるときのパックのなかにいるみたい」


 こうしてノアとハンプは丘を下っていきます。

 だがそこで鬱蒼と茂った雑木林を抜けると、上空からなにかが羽ばたく音がしてきます。そこには骸骨の仮面を付けた野鳥たちがいて、ハンプを餌として狙っているのでした。いち早く自分の危機を悟ったハンプは叫びます。


「やめて、ぼくは美味しいゆでたまごじゃないよ!」


「くそ、あいつら。振り切れねぇ」


 いたずらでいつも先生たちに追い回されるノアは、学校でも一、二を争う俊足でした。けれども野を駆け山を越え、つねに飛び回る野鳥たちにはさすがに敵いません。


 そしてじりじりと距離を詰められ、鋭利なくちばしと爪でハンプに襲いかかろうとしました。そのときでした。


「ほっほ」


 どこからか軽やかな声が聞こえました。そして次の瞬間、背後から目映い光が稲光のように走り、野鳥の声と風切り音が遠ざかっていくのをノアは聞きました。


「な、なにが起こったんだ」


 前方に見えていた石に隠れるようにしてふりかえりました。そこには青い警備服を着た男が立っていて、つかつかと革靴を鳴らしてこちらに歩みよってきました。


「これは災難でしたな」


 男はノアにまっすぐに近づいてきました。その手には懐中電灯と警棒。どうやらそれで野鳥を追い払ってくれたようです。


「あ、ありがとうございます」


「どういたしまして。おや、そこにいるのは」


「ぼくはハンプだよ。あなたは」


 その人は帽子を深く被っていました。赤い月光を背後にしていて顔が良く見えません。


「名乗るほどの者ではありません。おや、あなたは怪我をしている」


「ちょっと転んだの」


「それはいけませんなぁ。ここら辺は分別をわきまえない野鳥が多い。殻を持たぬ体は格好の獲物で、それだけ傷だらけでは歯向かう術もない。ここは一つ、ご助力しましょう」


 そうしてその男の人はノアにおんぶされているハンプに手を伸ばしました。本来ならば突然現れた男を警戒するべきでしたが、その警備服の男には相手に不審な想いを抱かせない、不思議な雰囲気がありました。


「わあ、すごい。傷がみるみる治っていくよ」


「そしてこれはあなたを守る鎧、つまりは殻の役割を果たしましょう」


 男の呟いたとあと、ノアの肩に掛かる重みがすこし増したような気がしました。ノアは後ろで起こっていることが気になって仕方がありません。


「ハンプ、一旦下ろすな」


「うん」


 そうしてハンプに眼を向けたノアは驚きました。


 そこにいたのはつるんつるんにお肌が復活したハンプがいて、その脇にはジャック・オ・ランタンを模した鎧がありました。それは手で触れてみれば分かる通り、とても丈夫なつくりでありながら、恐るべき軽さを誇っていました。そしてその鎧を着る場所はゴムで出来ていて着脱もしやすそうです。


「これがあれば野鳥に襲われる心配もありますまい。転んでも体を痛めることもない」


「すごい!まるで魔法みたい」


 ノアもハンプと同じことを思っていました。ハンプに鎧を着せるのを手伝ったあと、ノアは背後で見守ってくれていた男に尋ねました。


「あの、これって」


 ですが振りかえった場所に男の気配はなく、秋風が物悲しく吹き抜けているだけでした。


「消えちゃった」


「……行こう」


 体が回復して鎧を付けたハンプとノアは、それぞれの足で丘の残りを一気に完走しました。


 そしてふたたび相見えることになった時計台広場。 


 そこは宴もたけなわ、化物たちはひしめきあって最高の盛り上がりを見せていました。広場の隅にはいつのまにか即席のステージが設けられていて、七色の照明に照らされる漆黒のグラウンドピアノが置いてあるのでした。そのまわりをロウソクが照らしています。突然の観客乱入を防ぐ防護冊のようです。


「これは」


 ノアの手をぎゅっと握りながら、動き回るジャック・オ・ランタンと化したハンプが言います。


「これがリサイタルだよ。みんなウィルの演奏を楽しみにしているんだ。あ、あれを見て」


 ハンプが指差したさき、舞台の上手側からとんがり帽子を被ったウィルが姿を現しました。まわりの化物たちは拍手喝采で彼を称えます。ウィルは颯爽と観客に手を振ったのち、コウモリたちに脱いだ手袋をくわえさせます。そして椅子に腰かけ、鍵盤に手を置きペダルに足を添えます。どうやらいよいよ演奏が始まるようです。


「あの野郎」


「待って、ノア。今舞台にあがったらパニックになるよ」


「でも演奏が終わっちまったら」


「大丈夫。演奏が終わったらサイン会があるから。そのときに話しかければいいよ」


 良く分かりませんが、この世界にもそのような慣習があるようです。ノアはいますぐ蹴りを付けたい想いをぐっと堪え、演奏に耳を傾けることにしました。


 こうして演奏が始まりました。演奏された曲は、かの有名なサン=サーンス作曲の交響詩、『死の舞踏』でした。


 穏やかに始まった演奏は、弾くようなウィルの演奏によって徐々に激しさを増していきます。妖しげでありながら陽気さをもかね揃えた演奏に、ノアはいつしか使命を忘れて旋律に没頭しました。


 ウィルの緩急自在な演奏と曲の進行によって変わりゆく照明演出、そして異様な世界に迷い込んだという現実が相まって、ノアはすっかり陶酔のような場所へとのぼっていました。


 それは不安や恐怖しか感じられなかったノアにとって素敵な体験でした。非日常の中で垣間見た夢のようでした。


 そして演奏が終幕すると、ハンプは感激のあまり涙を流して叫びました。


「ブラボー!」


 それを契機にウィルの素晴らしい演奏を祝福する口笛や歓声で広場は支配されました。


「ノア。ぼくみたいなゆで卵でも、ウィルみたいなピアニストになれるかな」


「なれるんじゃねぇの」


 むせび泣くハンプを適当にあしらいながら、ウィルは我に返っていました。いよいよ三度目のウィルとの対峙が迫っています。


 今度こそは。ノアは強い眼差しでウィルを見つめていました。

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