★19時30分

 その頃、待ちに待ったハロウィンが始まった街中では、多くの人たちで賑わっていました。ストリートには出店が立ち並び、それを縫うようにして、仮装した子供たちや大人が列をなします。


 子供たちの格好は、定番のシーツを被ったお化けから、包帯をグルグルまきにしたミイラ、全身にネジが刺さったフランケンシュタイン、鋭利な牙を尖らせた狼男、帚にまたがってとんがり帽子の魔女など、見ていて愉快なものばかりです。絵の具で肌にペインティングを施す本格派な子供ゾンビもいて、まるで本物の血や傷と見紛うほどの力作でした。


 そんななか、シャツにパーカーを羽織り、サスペンダーを腰から下げた出で立ちの男子が、賑わいの外れで一人、いたずらに精を出していました。


 彼は禍々しい悪鬼のお面とフードを被っています。片手にはペンキが入ったバケツを握りしめ、片手には安物の刷毛を握っていました。家の壁や塀に手当たり次第に悪戯書きをし、歩道に止められた自転車を見つけてはサドルを引き抜き、豪華な家が眼に入れば右の懐に忍ばせている生卵を窓に投げつけていきます。


 通行人に見咎められても、今日ばかりは怒られる心配もありません。すこしばかり度の過ぎたいたずらと見做されるからです。


 ノアにとってハロウィンとは、なにをしても無罪免状になる日というくらいの認識でした。彼はいたずらの虜なのです。


 その辺り一帯のいたずらも済み、ロウソクが揺れるストリートから別の地区に移動しようとしたとき。角から突然、大きな黒い塊がぬっと飛び出してきました。ノアは半身を捻って避けようとしましたが、間に合わずに肩がぶつかりました。ノアの手を離れたバケツがストリートを転がり、ぶちまけられたペンキがロウソクの炎でぬらぬらと照らし出されます。痛みで顔をしかめるノア。けれど相手は謝罪するどころか、止まることなく歩み去ろうとします。


「てめぇ」


 頭に血が昇ったノアは、後先考えず男のマントを引っぱり、胸を掴みました。けれど相手はかなりの長身で、胸を掴むノアは爪先立ちです。ノアは相手の顔を見てぎょっとしました。


 なぜなら相手には顔がなかったからです。いや、この表現は正しくありません。本来顔があるはずの位置にジャック・オ・ランタンが乗っていたのです。


「ギャハハ、引っかかった引っかかった」


 全身の毛穴が開くような笑い声を響かせたあと、長身の男はマントでノアを包み込みました。


「な」


 一気に視界が墨汁のような暗闇に覆われてしまいます。そして次に光が差したと思ったら、それはジャック・オ・ランタンでした。


「うわ」


「ようこそ、魑魅魍魎の世界へ」


 暗闇がするすると解けていくと、眼に見えていたはずの煌びやかな世界は消え失せていました。ノアは言葉を失いました。


 見える限りの建物やストリートが崩壊寸前になり果て、奇怪な植物に覆われていました。家の窓や玄関から太い植物の蔦が伸び、天井や窓から葉が垂れ下がっています。コンクリートのストリートはひび割れ、そのあいだからも同じ植物が生い茂ります。葉の形や蔦の性状からして、それはあきらかにカボチャでした。


「なんだよ、これ」


 ノアは叫びました。気味が悪いことに、飾り立てられていたロウソクすべてに小型のジャック・オ・ランタンが被せられ、そのすべてがノアに視線を注いでます。


 空気は冷たく張りつめ、どこからか狼の苦しそうな遠吠えが聞こえています。いつのまにか濃い霧も立ちこめています。


「ボーイミーツガール。ようこそ、ハッピーハロウィンへ。今日の主役のお出ましだ」


 頭上からの声に顔をあげると、さっきぶつかってきた男、じつはウィルが崩壊寸前の屋根に飛び移るところでした。ウィルは河原の石を飛んでいくように、軽快に家々の屋根を渡っていきます。


「野郎、待て!」


 ノアの動物的カンがささやきます。あのカブ頭を追いかけなくてはいけない。ここで相手を見失うわけにはいかない。


 ノアは霧のなかを進んでいきます。看板の文字は棘の生えたような奇怪な文字に代わり、信号機は骨が抜かれたようにふにゃふにゃです。壊れた建物のほかにどこか都会的な雰囲気の建物も見受けられます。見ている景色は驚くほどの変貌を遂げていますが、今のノアは興奮で眼が向きません。


「待て」


「鬼さん、こちら、ここまでお出で」


 ウィルはふしぎな節で口ずさみながら屋根を伝い、ある場所に向けて高く飛翔しました。


「逃がすか」


 不気味な男を追って、ノアがたどり着いた場所。


「うわぁぁぁ」


 眼の前に広がっていた光景に、ノアは悲鳴をあげました。


 そこは時計台がある街の中心地で、透明な人間のなかに多数の怪物たちが紛れているのでした。眼球が飛びだしたゾンビや荒い息で四足歩行する狼男、青い顔色で巨体のフランケンシュタインが跋扈していて、首のない貴婦人たちはテラス席でティーカップを傾けています。空には帚に乗った魔女がオーロラを発生させながら駆け回っています。


 けれどノア以外の人間たちには化物の姿が見えないのか、みな平和な笑顔です。ノアが追いかけていたウィルはどこからか拡声器を取り出して広場を盛り上げます。


「あの世とこの世が混じりあう素敵な夜に、人間界からのお客さんだ。皆の者、今日という夜を骨の髄まで楽しんでくれたまえ」


 怪物たちの歓声に、ノアの平衡感覚は麻痺しそうでした。


「なんだよ、これ」


 恐怖で足がすくむノアの眼の前に、鬼火のような赤い球が出現しました。


「うわ」


 ノアが後ずさりすると、スニーカーに他人の靴が当たる感触がしました。そこには時計台の天辺から瞬間移動してきたウィルがいました。その胸元にさきほどの鬼火が浮遊していて、二つに分かれてまわり始めます。


「世界とは本来、二つ存在している。一つはお前たち人間たちが住む世界。そしてもう一つは私たちが住む世界、お前たちが怪物や幽霊と称する者たちが住む世界だ。そしてこの二つの世界は地球と月の関係のように、近づいては遠ざかるを繰り返している」


 ノアは逃げだそうとしました。

 けれど金縛りにあったようで、脳の命令は四肢に伝わりません。視線は強制的に鬼火に向けられています。まるで体の支配権を乗っ取られたようです。


 二つの鬼火は学校で習った地球と月の軌道のようにゆっくりと回っています。それはウィルの説明を可視化する模型のようでした。ノアは視線を固定されているので、眼を背けることは許されません。それがますます恐怖を倍増させます。


「そして今日。お前はこの世界の新しい住人として歓迎されている。素晴らしいだろう」


「素晴らしいものか。なんだよ、この気持ち悪い奴ら。もとに戻せ」


 ノアの訴えをあざ笑うかのように、広場からは嬉々とした無数の笑い声が拡散しました。その声は手の先まで冷たくなるように乾いていて、残虐な響きです。ウィルは淡々と説明を続けます。


「おいたが過ぎたのだ。朱に交われば赤くなる。お前はこちら側の世界へ招待されてしまった」


「いやだ。離せ」


「この世界はそんなにいやか。ノア」


 教えていないはずなのに自分の名前を呼ばれ、ノアは驚きました。


「なぜお前が、俺の名前を知っているんだ」


「ウィル様に隠し事は通じない。さて、そろそろお前に用意された宴の説明を始めよう。心優しい私はお前に更正のチャンスをくれてやる」


 ウィルがパチンと指を弾くと、ノアのまえに青い炎が浮かびあがりました。炎は徐々に寄り集まって数字を形作っていきます。それは一秒ごとに減っていくカウントダウンで、残り4時間ほどの猶予がありました。 


 その青い炎の他にも赤い炎も出現していて、108と示してあります。


「これは」


「青い炎は今日という日が終わるまでの残り時間を、赤い炎はおまえの告白すべき罪の数を現している。もしお前がカウントダウンが終わるまでに108の罪を告白することが出来れば、お前をもといた世界に戻してやる」


「もしできなければ」


「できなければ。それはもう、分かっているだろう」


 ウィルがパチンと先ほどのように指を鳴らすと、ノアの金縛りは解けました。ノアは全身を確認しますが、怪我はないようです。これで自由です。けれど眼の端に青と赤い炎が作りだす数字がちらつき、いくら瞬きして眼を擦っても消えません。


「さあ、始まりだ」


 ウィルは大袈裟に手袋を付けた両手を夜空に向けて宣言しました。ノアはこのとき、不条理な仕打ちに怒らずにはいられませんでした。自分の右懐に手を伸ばして卵を一つ掴むと、怒りのままに振りかぶります。


「ふざけんじゃ、ねぇ!」


 目標はウィルの顔であるジャック・オ・ランタンです。

 卵を飛ばす速度、コントロール、角度。どれをとっても完璧でした。ですが卵は運悪く開かれていた口にすっぽり収まってしまい、破裂せずにジャック・オ・ランタンのなかに収まってしまいました。丸呑みさせただけの結末に、ノアは地団駄を踏みました。


「くそ」


「……悪い子には、お仕置きだ」


 冷たい声と供に、ジャック・オ・ランタンの眼や鼻、口から目映いばかりに光が強まりました。それは東の水平線に現れた朝日のように闇を切り裂いて発光します。あまりの目映さに、ノアはうつむいたほどです。


 光が収まってウィルに視線を戻すと、ウィルはいつのまにか飲みこんだ卵を取り出していて、お手玉のように宙に浮かせては楽しんでいました。そして突如、大きく空に向かって投げたのです。


「お守りをつけてやる。さあ、足掻け」


 その言葉を最後に、ウィルの姿は炎に包まれて消えてしまいました。


「なんだったんだ、あの野郎」


 そしてノアは上空に投げられた卵を見上げ、戦慄しました。


 薄暗い空に向けて放り投げられた白い卵が、みるみる膨らんでいるではありませんか。てのひらにおさまるほどのサイズだった卵が、いまやバランスボールほどの大きさになっています。


 ノアは弧を描いて飛んでいく卵を呆然と見守りました。落下する卵は加速度をつけて時計台近くの地面へと落ちました。ガラスを割ったときより一段低い、バリンという音が耳に残ります。 

 広場にいた怪物たちも、隕石さながらに落下してきた巨大卵に興味津々でした。その広場にいたすべての生物が、卵白と卵黄がだらっとレンガの地面に広がっていく場面を想像しました。


 けれど待てど暮らせど、一向に卵に変化はありません。ノアは硬いレンガにぶつかったはずなのに形が崩れていないことにも疑問を持っていました。あれほどの高さから落下すれば卵は粉々になることをいたずらのなかで学んでいたからです。


 そしてみながしびれを切らしていた次の瞬間、殻全体が振動をはじめたのでした。破片になった殻がカラカラと剥がれていきます。


 そして地面にぶつかった場所である、ちょうど卵の長径部分にあたる場所の下。そこから二つのか細い足がにゅっと伸びました。足は殻ごと持ちあがるようにして仁王立ちします。


 みなが卵に前のめりになっていると、卵のやや上の左右から殻を破ってなにかが出てきました。それはどうやら手のようでした。手の出現によって殻は役目を終えたようで、すべて粉々になって落下していきました。


 卵の殻から現れた怪物。ウィルがノアのお守りとして召還した存在。


 その正体はゆで卵でした。

 楕円形の体自体がおおきな顔になっており、お肌はつやつやで、手足は奇妙に長いです。そのゆで卵は体にまとわりつく薄い膜を剥がしていきます。


「ゆで卵じゃなかったら、危なかったね」


 ゆで卵はだれに言うでもなくキンキン声でそうつぶやくと、振り向いた先にいたゾンビに驚きました。


「どうしたの、その手。血が出ているよ。は、はやくなんとかしないと。あ、きみ。これ貸してね」


 卵は慌てふためきながら、近くの棺にいたミイラ男から包帯を取ろうとしました。そこで奇声をあげました。


「ひゃあ。な、な、なんてひどい火傷。君も怪我していたんだ」


 卵は包帯を丁寧にまき直して、ぱんと謝罪のように手を合わせました。それから大きな体をくるくるさせて周囲を見渡します。


「みんな怪我ばっかり。大変なところに来ちゃったね!」


 ここで卵は棒立ちになっていたノアを見つけました。ノアもじっとゆで卵に呆気に取られていて、時間を浪費してしまったことに気がつきました。ノアはどこにもいないウィルに向けて吼えます。


「おい、ウィルとかいうカブ頭野郎。隠れてないで出てこい」


「あ、そうか。君がノアくんか」


 その卵は胸とおぼしきところで、なるほどと手を打つと、二足歩行で、しかもスキップでノアに近づいて来ます。生まれたての体はぷるんぷるんとゼリーのように揺れています。右へ左へ体は弾んでいます。


 これには怪物たちも眼を丸くしていました。ノアは自分を追いかけてくれる得体の知れないゆで卵に気味悪を感じ、反射的に逃げだしました。けれどゆで卵はノアの背中を追ってくるではありませんか。


「ノアくん。待ってよ」


「追いてくんな」


「そういう訳にもいかないんだ。僕は君と友達になりたい。きっとたがいの家に遊びにいけるような関係になれると思うんだ。僕の名前はハンプ。あ、待って。ねぇ、ちょっと」


 なんだあの、ハンプとかいうゆで卵。すげぇ慣れなれしい。


 ノアがハンプに追われながら退場した広場。


 そこに入れ替わるようにたどり着いたのが、邪悪なローブを身に纏ったミサでした。

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