☆19時

「遅くなっちゃった」


 ハロウィンが開催される夕まぐれ、ミサはレンガ道を急いでいました。

 楽しみにしていた今日に限って、日直当番で帰りが遅くなったのです。夜太陽が沈んだ空には、銀の月と一番星が顔を出し始めています。そこに鐘の音が響いてきました。


 この田舎街の中央広場には、大きな鐘をてっぺんに掲げた時計台があり、この街のシンボルになっています。ミサはそこで友達と待ち合わせしています。ハロウィン当日の今日、広場には大勢の出店が立ち回り、多くの人たちで賑わうことでしょう。


 ミサは喜びではちきれそうになりながら、川沿いに立っている木製の標識を追い越していきます。家までもうすこしです。鐘が鳴り止むと、ミサの耳にはテムズ川のせせらぎと一緒に、ピアノの軽快な旋律がどこからか届いていました。


「ただいま」


 ミサは勢いよく戸口を開け放ちました。かまどが眠っている土間に、お母さんの姿はありません。ミサは朝に伝えられていたことを思い出しました。


「お母さんとお父さん、今晩は仲良しのご近所さんと出掛けるんだっけ」


 回想していたミサの両耳に、力強くうねるピアノのメロディーが振ってきました。


「え」


 ミサは口を半開きにして天井を見上げます。演奏はどうやら、二階から奏でられているようです。そこはちょうど自分の部屋あたりでした。ミサの家に鍵盤はなく、楽譜を読める人もいないはずでした。


 ミサはごくんと唾を飲みこみました。まさか、泥棒さんかな。だけどピアノの音は、どういうことかな。


 ミサは階段に足を掛けました。天井の蜘蛛の巣を避けるようにして、一段一段のぼっていきます。階段を軋ませるごとに演奏は鮮明になります。先ほどまで力強かった演奏は章が変わったのか、やわらかな曲調です。


 ミサは自分の部屋の扉のまえにたどり着き、深呼吸をすると、ナップサックを握っていない手で一気に扉を押しました。


 そこで、ミサが目にしたもの。


 それは真っ暗な部屋の奥で、腰くらいの高さでぽっかりと浮かぶジャック・オ・ランタンでした。ミサの帰りを待ち詫びていたかのように、まっすぐにこちらを見据えていました。


「きゃあ」


 ミサは驚きのあまり膝から崩れおちました。心臓は大暴れで、全身に力が入りません。空気は口からこぼれて言葉になりませんでした。


 驚きで眼を見開いていると、ジャック・オ・ランタンがもう一つあることに気がつきました。それは左側の壁を見つめるように浮遊していて、あろうことか小刻みに揺れているではありませ

んか。あたかも旋律に合わせて体を動かす、ピアノ演奏者のようです。


 ミサは後ずさって土塗りの壁を背にしながら、その奇怪な光景から眼を離すことができませんでした。そしてピアノの演奏がフィナーレを迎えると、どこかしらから拍手が聞こえてきました。


「私めの演奏は、お気に召されましたか」


 聞き慣れない低音の声のあと、小刻みに揺れていたジャック・オ・ランタンがゆっくりとこちらに旋回するではありませんか。その顔はというと、眼と鼻は三角にくりぬかれ、口角が左右非対称ながらもにんまりしています。そのなかでは紅の炎が燃えているのです。


「驚かせてしまいました」


 縁取られた口が唇のように動いて言葉を連れて来たあと、ミサの両脇に手が差し込まれる感触がして、体がふわっと浮きあがりました。ほんのすこし足に力を入れるだけで、ミサは廊下に立つことができました。びっくりして両脇を見ましたが、なにもありません。


 視線を部屋に戻すと、ジャック・オ・ランタンは入口の見上げる位置にまで近づいていました。まったく足音も気配もしませんでした。まるで瞬間移動です。


 最初はジャック・オ・ランタンが宙に浮いていると驚いていたわけですが、間近で確認してみると、それが早とちりだと分かりました。ずいぶんと細身ではありますが、体はちゃんと実在しました。真っ黒で立派なタキシードを着ています。白い手袋をはめ、地面に届くほど長いマントを羽織っていました。外側が闇に紛れる黒、内側は眼の覚める赤です。


「あ、あなたは」


 招かれざる客人は、慇懃に頭を下げました。


「私はウィル。またの名を、ジャック・オ・ランタン」


「ほ、本当なの。あなたが、あの伝説の」


「ええ、そうです」


 授業で習った内容が自然と頭に想い浮かび、ミサは興奮せずにはいられませんでした。


「まあ。あなたのような有名人が、私の家に来るなんて」


「私も有名になったものです」ウィルはにんまりと笑顔でした。

「先ほどの演奏ですが、今宵のハロウィンでリサイタルを行うという大役を仰せつかい、リハーサルをしていたのですよ」


 ウィルの声はとても心地よい音色で、ミサのお腹に反響するようでした。カブ頭の恐ろしい怪物を眼の当たりにしているはずでしたが、ミサが抱いていた感情は、恐怖よりも好奇心のほうが勝っていました。


「素晴らしい演奏だったわ。だけどピアノなんて、どこにも」


 ウィルのすらりとした腰元から部屋のなかを覗いてみますが、ピアノらしき影も形も見当たりません。そしてよくよく部屋を観察してみると、正面にあったジャック・オ・ランタンはベッドの上に置いてありました。どうやらあちらは本来の役目通り、ランタンのようです。


「残念ながら、この部屋にあるピアノは亡者の所有物ですので、あなたのような無垢な魂には目視できません」


「そうなんだ。残念」


「さて。性急で申し訳ありませんが、お嬢さんには私がここに来た理由を知っていただかなくては」


「そうよ。あなたはなぜここにやって来たの」


「それは」


 ウィルは仕切り直すように、こほんと咳払いして、部屋に引き返していきます。立ち話もなんだから、ということらしいです。ミサも自分のベッドに移動して、放置していたジャック・オ・ランタンを勉強机へと置き直します。布や紙に引火しないように細心の注意を払いました。


 ウィルは見えない椅子に腰かけるように膝を曲げると、すらっと長い足を組みました。


「さて。私がこの部屋であなた様をお待ちしていた理由ですが」


「勝手に人の部屋に入るなんて、人間の世界では犯罪よ」


「そうまでしてでも、私には果たさねばならぬ使命があるのです。それはあなたの願いを叶えることです」


「私の願い」


 ミサは首を傾げました。なんと突然な話。ミサは現実感のないまま静かに首を横に振ります。


「それはとても嬉しいけれど、叶えて欲しい願いなんてないわ。今でも十分、幸せだもの」


「心優しいあなたのことです。そう仰ると存じておりました。ですので、あらかじめ私はしもべを使い、あなたの生活を秘かに覗かせていただきました」


「どういうこと」


 ミサが疑問を口にすると、ウィルは白い手袋をパチンと弾きました。するとその肩に、いつのまにやらコウモリが乗っているのでした。


 耳がうさぎのように丸く、足は待針のように細いです。コウモリは節が入った翼をはためかせながら、ウィルに甲高い声で鳴きました。まるでなにかを報告するかのようです。ウィルは神妙に呟いています。


「ふむ、なるほど。ノアという餓鬼大将か」


「え。なんて言ったの」


「いえいえ。こちらの話ですので」


 ウィルははぐらかすように言うと、マントをたなびかせて立ちあがりました。


「これからすこしのあいだ、お嬢さんの願いを叶えるべくお暇を頂きます。そのあいだに、お嬢さんには私共への報酬を用意して頂きます」


「ちょっと待って。なにがなんだか。それに叶えられる私の願いって」


 ミサは混乱した頭を両手で支えるようにしました。なにが起こっているのか、まったく理解できません。


 叶えられる願いってなに。そしてウィルに用意する報酬とは。


 濁流のように浮かんでくる疑問を解きほぐすように、ウィルは丁寧な口調で言います。


「叶える願いを教えることはできません。善い行いとは動いた跡を残さないものです。ですが、あなた様に必ず利益になることです」


「そう、なんだ」


 ミサはベッドの上に置いていた手をぎゅっと握りました。餌をまえに待てと命令された子犬の気分です。ウィルは下あごと想われる位置に手を添えます。


「そして報酬の件ですが、そうですね。お菓子はいかがでしょうか」


「お菓子。私の家にはないわ」


 ミサは即答でした。

 ニンジンやジャガイモの皮の素揚げをおやつ代わりにしていたミサにとって、チョコレートやクッキー、あめ玉などはあこがれでした。けれど高価故に滅多なことでは買ってもらえません。家の甕(かめ)をひっくり返しても、見つからないことでしょう。


 ウィルは困ったようにうなりました。


「そこはどうにかして頂きます。もしも報酬を払って頂けない場合、不躾ではありますが、お嬢さんに呪いを掛けなくてはなりません」


「の、のろいって」


「それは」ウィルはためらったあと、三角の眼をぎらっと光らせました。

「口にするものすべてが、カボチャ味になる呪いです」


「そんなの嫌!」ミサは思わず叫んでしまいました。

「カボチャは好きだけど」


「この呪いに掛かりますと、とろけるようなスコッチエッグや熱々なミートパイも、残念ながらカボチャ仕立てになってしまいます」


「そんな。お菓子以外、なにか別のものでは駄目なの。例えば押し花とかおはじきとか」


「残念ながら」


 ミサは力なくうなだれました。


「食べるものすべてがカボチャ味か。いつか飽きるだろうな」


 すっかり諦めてしまいそうなミサ。その様子をじっとうかがいながら、ウィルは壁に掛かっているローブに眼を向けました。そこにはハンガーに掛かった、ミサのお母さんお手製の黒いローブがありました。


 悪魔や天国の門番さえも巧みな話術で翻弄し、死してなお天国にも地獄にもいけなくなったウィル。


 彼が紳士のようにミサに近づいたのには、もちろん魂胆がありました。善行に目覚めたわけでも、自分が犯した罪を償おうとしているのでもありません。


 計算高い彼は、みすぼらしい家族を助けることで天使の内申を稼ぎ、あわよくば天国に行こうと企んでいたのです。


 しかしながら無償で願いを叶えていては、露骨な感じが否めません。ですから願いの対価として、手頃な見返りを求めることにしていたに過ぎないのでした。


 当初の予定では、ミサに仮装させて家々を巡らせ、もらってきたお菓子から適当なものを選んで終わりにしようと考えていました。


 けれど実際に家に来てみれば想像よりも粗末な造りで、壁に掛けてあるローブのみずぼらしいこと。その不遇な生活は、悪名高いウィルの眼にも涙が浮かび、石炭で燃える炎が弱まってしまいそうなほどです。


 ウィルは当初の予定を変更することにしました。


 このみずぼらしいミサを、一夜限りのハロウィンに君臨する恐怖の女王に仕立てあげることにしたのです。眼の前にぶら下がったローブに魔法を掛け、これを着たものは世にも恐ろしい化物に見えるようにしよう。


 なにも知らないミサはこのローブを着て、街の中心地へ飛び出していくことでしょう。そして町中の者たちはミサを見るなり震えあがり、悲鳴絶叫、阿鼻叫喚に彩られる素敵な一夜になります。

 

ウィルの頭で燃える石炭の炎の勢いが盛んになります。それはウィルが上機嫌になっていることを現していました。


 これはいい。最高のハロウィンになる。


 ウィルは大きな口から吐息のように火の粉を噴き出しながら、呪文を唱えました。ローブに恐怖の魔法を掛け終わると、ミサの肩に手を添えます。


「元気を出してください。今日は、なんの日ですか」


 ウィルが指差す壁を見て、ミサは笑顔を弾けさせました。


「ハロウィン!」


「そうです。ローブを着て家々を回れば、きっとお菓子が手に入ります。それを譲っていただければ結構です。多くの家々を回ってくださいね」


「分かったわ。私、頑張る」


「元気を取り戻して下さって嬉しいです。それではこれにて失礼します。手に入れたお菓子は私のしもべに食べさせてください。必要量に達すれば、駆けつけますので」


 そう告げるやいなや、ウィルはその身を巨大なコウモリへと変えました。そして壁に向かって羽ばたきます。ミサはぶつかると叫びそうになりましたが、コウモリは壁に接触することなく風切り音を残して姿を消しました。どうやら幽霊のように壁を通り抜けたようです。


「いっちゃった」


 その瞬間、学習机に置いていたジャック・オ・ランタンも消えてしまい、部屋は真っ暗になりました。慌てて机の上にあったランプの紐を引っ張って電気を付けます。


 ミサは温かな光に包まれながら、今起こったことのすべては夢なのかもと思いましたが、ウィルのしもべであるコウモリは天上にぶら下がったままでした。けして夢ではないようです。


「よし、みんなを驚かそう」


 そうしてなにも知らないミサは、凶悪な魔法が掛かったローブに手を伸ばし、仮装の準備に取りかかるのでした。

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