第3話 雨《なみだ》
遅い。遅すぎる。
イライラと時計の秒針を睨みつける。今日は遅くなるだなんて、一言も云わなかった。今夜に限ってなんでこんなに遅いんだ。
時計は11時を指していた。こうしている間にも机の上の料理は冷めていく。
いつも手を抜いているわけではないが、今日は特に朝から下準備をしていたのだ。君の大好きなオムライスに、少し高めのシャンパン。甘さを抑えた手作りケーキには「HAPPY BIRTHDAY!」の文字が躍っている。
そう、今日は君の誕生日だったのだ。ずっと前からプレゼントだって用意していた。それなのに……。
君のお母さんは待ちくたびれて先に寝てしまっていた。
このまま祝うことができないのだろうか……。そう気持ちも沈みかけていた時だった。
ガチャリ、と小さく扉を開く音の後に「ただいまあ……」と小さな声が聞こえてきた。
「お帰り。全く、こんな遅くまで何してたんだよ。せっかくの料理が冷めて……」
玄関まで迎えに行ったところで足を止める。足元を照らすのがやっとの橙色の灯りだけでも君がいつもと違うことは明らかだった。君の足元はふらつき、壁に手を添えて立っているのがやっとのようだ。顔色はよく見えないが、少し呼吸が荒い。
「……熱でもあるのか?」
躊躇わずに、君に手を伸ばす。が、君に触れるか触れないかのところで手を下ろした。熱ではない。酔っているのだ。証拠に君の呼気からはアルコールの香りがする。ふらつき具合からして相当の量のアルコールを摂取しているのが見て取れた。
「あっ……」
わずかな段差につまずく君を、とっさに支える。思いがけず君に触れることができ、いつもならそれだけのことで舞い上がっていたことだろう。だが、接近したことで君の衣服に移った香りに気付いてしまった。いつも君が好んでつけている清涼な香りではなく……男物の香水の香り。近くで車が去っていく音が聞こえる。君と並んで喫茶店に入っていった男の顔が頭をよぎった。
「ここまでどうやって帰ってきたんだ?」
「会社の上司がタクシーで送ってくださったの」
意識して抑えたせいで低くなってしまった声に気づかず、君は何でもないかのように答える。ただそれだけで僕はカッとなって、すぐそこの部屋に君を連れ込み、壁に押し付けた。
「僕の気も知らないで、君は……!」
僕の理性はすっかりどこかに行ってしまっていて、君の「痛い、離して!」と泣きじゃくる声も全く耳に入らなかった。上の階にいる君のお母さんが「帰ってきたのかい」と声をかけてくれなければどうしていたか、自分でも分からない。
それでも一度爆発した思いを抑えるのは難しく、僕はパーカーのポケットに入っていた小箱を床に叩きつけ、一度深呼吸をしてやっと自らを抑えることに成功したのだった。夜闇に慣れた目で君を見ると、うずくまって静かに涙を流していた。
「ごめん……」
それだけで君の肩がビクッと震える。寂しくはなったけど、君を怖がらせたのはまぎれもなく僕だ。
「ごめん。……ちょっと頭を冷やしてくる」
君の横をすり抜けて、部屋を出る。外へ飛び出すと、僕は走り出した。行くあてもなく。ただがむしゃらに。
やがて、ぽつりぽつりと頬を冷たいものが流れてきた。僕の心に比例し、星ひとつない空も大粒の涙を流す。
降り注ぐ
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