第1話 ささやかな幸福
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
肩を揺さぶられてハッとした。待ち合わせをしていた君と歩き出してから三〇分が過ぎている。
「何でもないよ」
僕はそう云って君の右手に自分の左手を絡め、ギュッと握った。
ぼんやりしている場合じゃなかった。君と一緒にいられる時間はめったにない、とても貴重なものなのだから。
「そんなことよりお腹すいたろ。どっか寄ってく?」
「確かにお腹すいてるかな。でも何か食べさせてもらえるなら、あなたが作るものを食べたい」
行く先を真っ直ぐに見つめながら、何でもないかのようにさらっとそんなことを云ってのける君が憎らしい。けど、ほんの少し、本当にほんのりと君の頬が紅色に染まったのが分かったから、繋がった手を振りながら今度は君を喜ばせるための料理を思い浮かべるのだった。
君とこうして一緒にいられることは〝奇跡〟だと云わず、何というのか。
すっかり満腹になり、僕を背もたれにしてすやすや眠っている君を眺めながら、ふとそう思った。
長いまつげ、しみ一つない玉のような肌、口紅なんかささなくても紅く色づく艶やかな唇、綺麗に通った鼻筋に、墨を流したような黒髪…。
高校入学と同時にこの街に戻ってきた時、まさか君がこんな美人になっているだなんて思ってもみなかった。
あれは荷ほどきをしていた時だった。母親からうちの片づけを手伝うよう云われてやってきた君は汚れてもいいTシャツ姿で僕の前に現れた。「こんにちは、手伝いに来ました」君は勝手知ったる様子で家の中を動き回り、親父たちもさも当然のように君を歓迎していた。
『あら、久しぶりね! え? 私のこと、覚えてない? よくちびっこ公園で一緒に遊んだんだけどな』
こんなクール系美人の知り合いなんて僕にはいないぞ。目を白黒させていた僕に君が十代の少女のような笑顔を向けた。
すると、その笑顔と僕の記憶の奥底に沈んでいた笑顔がぴたりと重なり、あの頃――つまり、十二年前に一緒に遊んでいた少女のこと――が鮮やかによみがえってきた。
どうして忘れることができたのだろう。見た目や身体つきこそ、愛らしいものから大人の女性へと変貌をとげていたが、笑ったときの目元や、頬の右側にできるえくぼ、肩をすくめるなどする時の仕草は、あの頃のままだった。
そんな洪水のようにあふれ出る記憶と共に、閉じこめておいたはずの胸をしめつけるような何かも甦ってきた。泣きじゃくる君を前に、口にすることもできずに目を背けてしまったあの想い。
今でも伝えられぬまま、君の横にいる。チキンな僕には、思いを告げることも、君の気持ちを聞くこともできない。でも、仕事終わりで疲れている五つ年上の君を僕の手料理なんかで笑顔にできるのなら、僕の腕の中が君の安らぎの場となれているのなら、今はそれだけで幸福になれるんだ。
「ウソだろ…?」
僕は、今自分の目に見える光景が信じられずにいた。こんなことなら、君を驚かせようなんてここに来るんじゃなかった。
珍しく部活が早めに終わり、これなら君と一緒に帰れると思いたち、二駅先にある君の会社へと向かい――今に至る。
君は男性と二人で会社から出てきて、そのまま小洒落た喫茶店へと入っていったのだ。
「あら、またあの人小辻さんに誘われたのかしら」
「そりゃあ、あれだけ美人で仕事も早けりゃ目に止まるでしょうよ」
「それにしたってお似合いよね。小辻さんといえば二七歳で専務でしょう? 仕事もこれから、男としても旬! 良い物件を掴んだわよねぇ」
「これはもう、あの二人はくっついていると踏んで間違いないわ。彼女の寿退社も間近かしらね」
後方で耳をふさぎたくなるようなОLの会話が聞こえてくる。喫茶店の窓からのぞき見える、微笑み見つめ合う君と将来有望な青年。耳にこびり付くОLの声を振り払うと、僕はその場を後にした。
遠くて、遠くて届かない。通り過ぎる風に舞う青い花びらは何処へ向かっているのだろう。
手を伸ばせばいつか届くのか。進むべき道がわからず、僕は途方に暮れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます