The S.A.S.【9-2】

 腐臭の混じる、重いため息が零れた。何もかも馬鹿馬鹿しい、そんな風にさえ思えた。たった一日で、倫理観の大部分で風通しが良くなった。

 俺がブリジットの選抜訓練への参加を許可すれば、彼女はすぐさま本国へ送られ、ウェールズの山野で扱き上げられるだろう。その光景を思い描くだけで涙が滲む。SASの選抜訓練は、過去に死者も出た過酷なコースだ。感傷的になるなというのは不条理だろう。彼女専用にどの様な訓練メニューが用意されるのか知れないが、まず間違いなく通常部隊とは比較にならない運動量を要求される。苦労性な旦那としては不適格と判を押されて落第して欲しいが、何処に敵が潜んでいるかも分からぬ現状においては、気心の知れた恋人が隣にいてくれるのは相当に心強い。常識なら迷うべき場面ではないが、第三国家でその常識は通じない。

「親父へ報告に行くぞ。あのタヌキ野郎の事だし、結果は知ってるだろうがな」

 立ち上がってドアノブを握った瞬間、ブリジットの腕が後方から伸ばされる。白磁の指が、一切の躊躇なく内鍵を閉めた。

「……何のつもりだ」

 大脳旧皮質に住む動物が、警報を発している。この部屋を出なければいけない。否、ブリジットと二人きりの状況から抜け出さねば。鍵を押さえる彼女の手を取ろうとするも、逆にその手首を絡め取られる。

「……ねえ、ヒルバート様?D中隊がアラビア半島に派遣されて、どれくらい経ちます?」

 強かに迫るブリジットの瞳の奥、とろりと煮えたぎる欲望が垣間見えた。

「数えてみてびっくり、なあんと三箇月です。随分と……ご無沙汰ではございませんかぁ……?」

 日本を偏愛する親父が気に入っている諺に、「蛇に睨まれた蛙」というのがあるのを思い出した。

「馬鹿を抜かすんじゃない、こんな場所で……」

「あら、ご存じじゃありません?この部屋、防音なんですよ」

 恋人の背中に燃える愛欲の炎にぞっとし、特殊部隊の経験が裸足で逃げ出す。力の抜けた身体が容易く壁へと追い詰められ、ぬらりと濡れた唇が右耳へ寄せられる。あ、あかんよ!

「いけないぞ、ブリジット君。ショーンとシェスカだって、同じ境遇で我慢してるんだ。僕らも耐えなきゃ」

「他人様は他人様です。別の女性の名前を出すなんて、無粋じゃありませんこと?」

 小さな手に、胸ぐらが引き寄せられる。三十キロのベルゲンを背負い、選抜訓練を攻略した日々を走馬燈に見る。乳酸がどれだけ溜まっても走り続けた脚が、今はもう震えて止まらない。おたすけえ!

「火が灯った妻を捨て置くおつもりです?」

「ずるいぞ!こんな時ばかり女を武器にするんじゃない!」

 しっとりと潤った手が頬に添えられ、蠱惑的に撫ぜられる。まずい、まずいよ堕ちちゃう。唇が殆ど耳に触れ、湿った囁きが理性を殺した。

「それとも……ヒルバート様はお嫌、ですか……?」

 恨むぞアダム、呪うぞイヴ。人間を万年発情期にせしめた罪は大きい。眼前の迷彩スモックに、成熟した谷間が汗を滴らせる。女の子の匂いだ。知性の悲鳴と共に情欲の拘束具が弾け飛び、その暗く淫らな谷底へ滑落した。檻から放たれた桃色モンスターが、緊張のワイヤーを真ん中から引き千切る。もう辛抱たまらん!不埒な制裁対象の手首を捕らえ、そのまま壁に押し付ける。眼下の少女は退路を失いながら、にやけ顔を崩さない。あまつさえ、してやったりと舌を出す始末である。溜まりたまった鬱憤が、情欲へと昇華した。

「きゃー犯されちゃう!」

「ほざけ淫乱新兵!」

 不思議なものだ。年齢、身の丈の全てが劣るこの娘に、一生を掛けても勝てる気がしなかった。

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