The S.A.S.【9-1】
【9】
間断ない緊張に脳が麻痺していたか、さもなくば多方向からのショックで混乱が相殺されたか。自分でも予想外に、ブリジットが実父を突き止めていた現実から立ち直るのに、さしたる時間は掛からなかった。スツールに腰を据え、紙カップの水をゆっくりと飲み下して数十秒。それで動悸は治まった。
「……いつから知っていた」
詰問に、ブリジットは事務的に応じた。
彼女の弁はこうだ。時を遡って一年前。奴隷調教施設に入る以前の記憶が、ブリジットの身に戻り始めた。意図せず再取得した母親の情報を足掛かりに、彼女は自身の出生を探った。母親の過去の言動を洗い出し、俺の羽振りが急に良くなった頃の新聞記事を漁った。警察が短期間に捜査を打ち切り、マスコミさえ関心を抱かない殺人事件を、彼女は掘り起こした。賢いこの子だ、おぞましい真相まで辿り着くのに、長くは掛からなかっただろう。何も知らないままでよかったのに。
自らの生い立ちと旦那の私的殺人を知り得ながら、ブリジットはパンドラの箱を心の内に潜めていた。自分が何も言わなければ、誰もが幸せなままでいられる。そんな風に、優しくも寂しい想いを秘めて。まだ大学生くらいの少女に、俺は何たる負荷を掛けていただろう。不甲斐ない自身に嫌気が差し、テーブルを殴り付ける。握り締めた拳に、身を乗り出したブリジットが手を重ねた。
「ヒルバート様が気負う必要はありません。これは私の勝手招いた報いです。それに、お陰で今後の指標も見えました。感謝してるくらいですよ」
「それが戦場で旦那のケツを追う無茶じゃなかったら、手放しに喜べるんだがね」
ブリジットは苦笑し、普段と変わらぬ物静かな、それでいて大人を舐め腐った口調で応じる。
「危険を省みず愚父の暗殺を遂げて下さった恩返しに、四六時中お仕えするのは当然でしょう?」
「限度ってものを考えなさいよ……」
説得に困窮した主人に、恋人は駄目押しを畳み掛ける。
「本当はお分かりなんでしょう?ここで貴方に断られても、お義父様の権限を使ってお供しますよ?それでも駄目なら、お義父さまのツテで将軍様に……」
これには呆れて物も言えない。彼女の言葉を借りれば、アボットの殺害こそ俺の勝手な判断と独走である。俺の殺人行為がブリジットの論の根幹にある以上、明確な理由なしに彼女の具申を却下する術はない。言うまでもなく、その理由とやらを見出すおつむはない。
正直なところ、悩み続けるのに嫌気が差していた。そもそもが頭脳労働に向いた生まれではないし、北アイルランドにいた頃から直感に頼って生きてきた。それが昨晩から懸念やパニックの連続で、挙げ句に恋人の衝撃告白だ。ここ二四時間だけで、頭蓋の中身が蒸発し切っている。神様よ、聞こえているなら応えて欲しい。もう、折れてもいい頃だろう?
「なあ、ブリジット。もう一度だけ聞かせてくれ。お前、これからどうしたいんだ」
目頭を揉んで大きく仰け反ると、パイプ椅子が悲痛に軋む。
「ヒルバート様のお側に控えております。いつ、何処へでも」
目を閉じているので姿は見えないが、彼女の表情が容易に予想出来た。ヘリフォードの自宅でマフィンを焼く時の様に、穏やかな微笑を浮かべている。姿勢を正して目蓋を開けば、いつもの恋人がいた。全く、馬鹿なやつ。
「……覚悟しろよ」
軽く頭痛を覚える身に鞭打って苦言を垂らすと、小さな英軍兵士は小憎らしく口許を歪めた。
「とうに出来ておりますよ」
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