The S.A.S.【8-3】

 鬱に沈み、手を額にうな垂れる。皮肉にも、彼女の発言と狂気の正当性を証明する説には、思い当たる節があった。多くの動物が同族殺しに対して極端な忌避を示す研究結果は、数々の文献が詳説してくれている。同時に、その心理的制約を逸脱する存在さえも。

 軍人を対象にした調査によれば、男性の九八パーセントは殺人に強い抵抗を覚えるとある。中脳――脳の動物的本能を司る部位が、歯止めを掛けているのだ。これの枠外にあたる二パーセントは、その道の専門用語で『攻撃的精神病質者』と呼称される。彼らは所謂サイコパスとは根本から異なる存在であり、正当な理由と上官の統制下にある限り、同族の殺傷に二の足を踏まない。故に、人殺しを理由にPTSDを抱え込まない。組織に忠実かつ任務に実直、兵士として無比の適性である。

 それが自分の恋人だと判明して、誰が喜ぶものか。先程と打って変わって脱力し、ブリジットを直視出来なかった。俺とて、血煙の舞う戦場まで最愛の女を引き連れるほど壊れちゃいない。彼女が自身の行為に動揺を見せない説明は付いた。だが、それで戦線加入の言い訳にはなる筈もない。俺の望みはブリジットが安全な場所で俺の帰りを待ってくれる事であり、惨たらしい人殺しに荷担させる為ではないのだ。

 酸味を含んだ臭いが喉に絡みつく。テーブルへ突っ伏した俺に、親父は容赦しなかった。

「この裁定は何も、ブリジットの建言を全面的に支持してる訳じゃない。この子の精神的安定の為でもある」

 義父としてあるまじき妄言に、拳がいつ放たれてもおかしくなかった。このまま男ふたりをぶちのめし、ブリジットの手を引いてすぐにでも本国へ帰したかった。

「考えてもみろ。お前がブリジットに救われた様に、お前自身がブリジットをこの世に繋ぎ止めておく楔になっているんだ。どんな理由であれ、お前が死ぬ事態は耐えられないだろうよ」

「それが詭弁の説明になっているとでも?戦場でブリジットが死傷した時の、俺の気も察しずに!」

 当のブリジットは全く動じる素振りさえなく、その膝に置いたB5サイズの冊子をテーブルに伏せた。

「……少し、お二方には席を外して戴けますか」

 ショーンの表情に、驚愕の色が浮かぶ。が、そんな弟の肩を親父は叩き、ブリジットへ何らかの目配せををすると、三男を連れて部屋を退出してしまった。男ふたりの退場と同時に鉄扉が閉じられると、室内に沈黙が垂れ込めた。

 一体、ブリジットのやつは何を考えているのか。彼女の死が、俺にとっての破滅を意味しているのを知らぬ筈はないのに。濃くなってきた胃酸が、粘膜壁に痛烈に沁みる。紙カップの水も使わずに、ありったけの胃薬の錠剤を噛み砕いた。腰を据えてもいられず、席を立って背後の壁に額を押し付ける。

 何を誤った?ブリジットとの交際が本格化した時点で、この職から手を引くべきであっただろうか。一理あるが、連隊は俺にとって単なる食い扶持ではないのは誰もが知っているし、他の仲間だってそうだ。そうなると、やはり遠征当初からブリジットを強制的に本国へ送還しなかった点が大きい。一旦抜け出したものの繰り返される堂々巡りは、渦中の女の声で中断される。

「ヒルバート様のご意見はもっともです。私が戦闘に加わっても戦力にはなりませんし、それが原因で部隊を窮地に追いやるかもしれない。場合によっては、イギリス政府が特殊部隊に性奴隷を編入していたという情報が内部告発される危険もあり得ます。

 ……ですが、私もただの小娘ではありません。学歴以外は全てにおいて同年代女性より秀でていますし、戦争の現実も把握しているつもりです」

 さも他人事の様に、彼女は就職面接みたいな美辞麗句を並べる。恨めしく視線を向けると、ブリジットは手にしたスクラップブックを開いてみせていた。黄土色の紙面に、新聞やコピー用紙の小片が整然と貼付されている。記事の詳細までは認識しないものの、太字の見出しや不鮮明な写真を無意識にさらっていた。

 にわかに、おぞましい悪寒が胸に去来した。情報の欠片は、何れも一昨年の九月付の記事を示している。各新聞社は揃って、猟奇殺人の単語を見出しに置いている。それら全てに憶えがあった。風化も始まっていない記憶のフィルムが、鮮明な像を映す。脳裏が秒単位で再現する暗い情景、血の臭い、筋肉を断ち切る感触に、神経が統制を失った。

「私だって、こんな歳で死ぬのは不本意です。ヒルバート様を案ずる前提に、自身を防衛する小狡さも自負しています。だって――」

 何より、複数枚に渡って添付された被害者男性の近影が強烈な揺さ振りを掛ける。

「――私は故上院議員、マーティン・アボットの娘ですもの」

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