The S.A.S.【7-3】

 数時間前に比べて体調はましになったものの、気分が酷く塞ぎ淀んでいた。数人の仲間が装備を着たまま汗と血を洗い流すシャワー施設で、ダニエルは乾いたゲロで硬化した俺の身体を懸命にこすった。怪我こそないものの、彼も疲れが表面化していた。作戦直後はいつもやかましい施設は、今は水がタイルを叩く音しか響かない。

 装備の洗浄から乾燥の用意まで、全てをダニエルが片付けてくれた。諸々の汚れを落として新しい肌着とトラウザスに着替えると、身体に若干の回復が見られた。自分のベッドに腰掛けて、従者と化したダニエルを手招きする。

「なあダニー。報告書をコピーしてきてくれ」

 ぎょっとした顔だった。

「あのね、馬鹿言うんじゃないよ。いいからじっとしてなさいな」

「頼むよ。これ以上動けなくなったら、ちょっと前と同じ廃人になっちまう」

 俺は住人のいない上段のベッドに視線をやり、食い下がった。

「ブリジットの件を頭の隅へ追いやるには好都合だ。飲み物と、冷えたチョコレートも頼む」

 お脳への栄養は、何はなくとも糖分だ。不承不承に、ダニエルは作戦報告書と食料を持ってきた。A4用紙が二十枚ほどステープルされた暫定報告の表紙には、英陸軍の徽章が不鮮明に印刷されている。作成者は、ヴェスト・クラプトン少尉となっていた。事件の概要から読み進め、参加した組織の所属構成を上からなぞる。作戦の最高責任者は、本国のクレデンヒルでテロに備える我らがボス、ブラッド・クリーヴズ中佐だ。その直下にリチャード・クラプトン少佐が続き、D戦闘中隊と第二六四通信中隊が追従する。英陸軍以外からの参加は、ブレナン中将率いるRAFとSISの背広組が数人、特殊部隊支援グループを始めとしたスタッフが続く。

 潰れたマットレスに尻を沈め、しばし顎を撫ぜる。チョコレートを舌に乗せたまま、じっくりと粘膜に染み込ませる。神経細胞が活性化し、ノックダウンしていた脳を叩き起こした。ダニエルに隣へ座るよう促し、耳打ちする。

「何処にもあいつらの記述がない」

 制圧後の貨物船に乗り込んでいった、例の不審な連中だ。英軍であるなら、報告書に記載がない筈がない。事実確認にこの報告書の作成者の方へ首を回したが、声を掛けるのは止した。ヴェストは左半身をベッドから宙へ放り出して、死んだみたいに眠っていた。

「あの大所帯なら、他の連中の目にもついてますよね……」

 写真を撮っておくべきだったと、叶わぬ過去へ未練を噛み締めた。次項で作戦の顛末が俯瞰されており、陸軍の調査部門の主導で積み荷の確認を以て、作戦は終了を迎えていた。――陸軍の調査部門。月明かりの下では、集団の中にこの三箇月ですれ違った顔があったかも分からなかった。第一、その調査部門が何処の所属も明記されていない。臨時に編成されたタスクフォース(任務部隊)なら、その内訳があってしかるべきなのに。

 ダニエルが空の木箱を持ってきて、その上で銃の整備をし出す。付近のベッドで起きている者は、俺達ふたりを除いて皆無だった。報告書の次の項に、敵の詳細と被害状況が記録されていた。計三六人の犯行グループは大方の身元が判明し、数名がDNA鑑定の結果待ちである。自軍の被害は、陸空の合計で十六人。その中にパーシーとデイヴ、狙撃を担当していたマシューの名と階級が記されていた。味気ない印字を目の当たりに、彼らが二度と戻らない事実が心を打ちのめす。RAFのピューマ・ヘリ一機が全壊、もう一機も軽微ならぬ損傷を受けたらしい。彼らの人的被害は三名。墜落したヘリに搭乗していた仲間は、炎上する機体でどんな最期を迎えたのか。

 喉元までせり上がる胃液を押し止め、報告書を読み進める。最後に我々が調査に赴いた大本の目的、積み荷の詳細が連ねられていた。Excelのマス目が縦横に並び、押収した物品と数量、確認が取れている出所が入力されている。自動小銃――一二九挺、対戦車擲弾――三八発、破片手榴弾――八四個……。およそ冷戦期に生産されたと思しき武器資料を読み流し、枠外の付言に眉根を寄せる。――以上、陸軍より提供。『陸軍』は個人とか、小さな集団を意味する単語ではない。一体、何処の部署の誰がこの資料を作成したのか。報告書の表紙を睨み、チョコレートを口に含む。いけない。この問題には、一人で向き合うべきではない。

 ともすれば連隊の結束が瓦解しうる難題を保留し、資料をベッド下のコンテナへ仕舞う。士官らしく報告書を検分したところで、思考は恋人への憂慮に捕らわれたままであった。先の作戦で殺害した敵の内、二体はブリジットの手によるものだ。コンテナに転がる死体は一方が胸を、もう片方は喉を撃ち抜かれていた。間違いなく、死んでいた。無残に殺されていた。速まる脈拍に呼吸を整えつつ、抗不安剤へ手を伸ばす。

 銃の整備を終えたダニエルが、作業台の木箱の片付けに目の前を去る。差し当たり、状況の整理が必要だ。如何様な状況であれ、ブリジットが殺人に手を染めたのは事実だ。それも、大の男を二人ときている。一瞬の行為とはいえ、明確な殺意を以て臨んだに違いない。素人が衝動的に、対象急所をぶち抜ける道理はない。お遊びの延長といえ、護身目的の射撃術を指導するべきではなかったと悔やむ。相手が国家に仇なすテロリストだとしても、何の慰めにもならない。

 ――はて。明晰さを取り戻しつつある脳味噌が、糖を急速に燃やし始める。この慰めは、果たして誰に向けてのものか。不意に浮上した自問に、手ずからこしらえた迷宮へと光明が差す。シナプスが導爆線より早く信号を伝え、頭上に巨大な白熱電球が灯る。とどのつまり、俺は彼女を建前に自分への赦しを請うていたのだ。神を信じない野郎が、己が内に懺悔室を設けていた。いやはや、滑稽じゃないか。

 系統だった思考活動が回復した。兵舎で勝手に腐り、無為に悩んではいられない。当事者のブリジットを前に、どんな言葉を掛けてやるかが至急の課題だ。

 殺害対象が凶悪犯罪者であっても、初めて人間を殺した兵士は、ほぼ確実にPTSDを発症する。これこそ大脳皮質の発達と引き替えの呪いと言うべきか、ヒトは同族殺しに対して極めて敏感である。戦地で敵を殺めた兵士は、起動時間の知れない爆弾を人知れず抱える。起爆スイッチは時間の経過かもしれないし、料理中に指先を切って血が滲んだ瞬間かもしれない。契機がどうあれ体内で爆発が生じるのだから、無事では済まない。脳と精神を吹き飛ばされた人間が、正常でいられるものか。それまで盲信していた倫理観を自ら否定した彼らは、甚大な精神疾患をその身に科す。そんな重苦につぎはぎだらけのブリジットが耐えられると、どうして考えられる。

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