The S.A.S.【3-3】

 砂が抜けて軽くなった身体にボクサーショーツを履き、おろしたての緑色の肌着に袖を通すと、やっとで人心地つく。唯一の心残りは、奔放に伸びた硬い髭の処理だ。一思いに剃ってしまいたくはあるが、皮脂が失われて砂漠の乾燥に弱くなるし、アラブ人の中でアルビノみたいに目立ってしまう。美男子でない自覚はあるものの、あるよりはない方が見苦しくない。

 数分前と何ら違わぬ衣服に身を包むと、頭髪に残った水分が早くも蒸発し始める。仲間の前ではひた隠していたが、期待への胸の高鳴りを覚えていた。『ブリティッシュ・グレナディアーズ』を鼻歌に折り畳みの鏡を開き、間もなく仕事を終える洗濯機を前に髭を撫で付けていると、後方から軽車輌のエンジン音が窺えた。振り向けば、光沢を消したベージュのランドローバー・ウルフが、こちらへ向かってくる。助手席側のドアの「I'm crazy in RICEBALL!」の落書きには見憶えがあった。英陸軍の多用途車輌へるんるんと近付いて車内を覗き込み、そして落胆した。――ちくしょう、乗ってない。運転手を務める、顔をバラクラバ(目出し帽)とサングラスで覆う兵士が残酷にほくそ笑んだ。

「上司がこんな腑抜けのこらえ性なしと知ったら、小隊は瓦解するでしょうね」

 白い肌を隠す女兵士にむっとしつつ、俺は助手席に尻を沈める中年男性へ無言の圧力を掛けた。男は脂の乗った頬を掻きつつ、女兵士の肩を叩く。

「弟を虐めるもんじゃないぞ、ニーナ。男の三十代は、まだまだ鼻垂れの餓鬼んちょだ」

 二人まとめてぶっ飛ばしてやりたかったが、浮き足立っている我が身も明らかなので、紳士らしく溜飲を下した。それに、おっぱじめたら無事では済まない。男の方――我らが一女四男の養父、及びD戦闘中隊のボス、リチャード・クラプトンは問題ない。かつてフォークランドや湾岸を戦い抜いた手練れとはいえ、もう六十路も手前の老兵。体力的に、分はこちらにある。

 問題は女の方だ。黒のバラクラバとサングラスの間から、真新しい絹糸と見紛う銀色が覗いている。この女こそ、我らが親父殿の隠し玉であらせられる、ニーナ姉様である。基地で素顔を晒そうものなら餓えた野郎共の精巣が即時に破裂、そのまま死に至らしめる美貌を持ち、その胸部にEカップ(イギリス基準)の爆弾ふたつをぶら下げる、恐怖のスラヴ系姉ちゃん。何より恐怖するは、こいつがクラプトンの五人兄弟の最年長であり、我らが中隊で最高性能を誇る殺人マシンという、知る人ぞ知る事実である。兄弟四人さえ預かり知らぬ『清掃業務』を請け負っているなどと、都市伝説めいた俗言が囁かれて長い前提を鑑みれば、その力量は想像だに躊躇われる。地元のおばちゃんの噂話でしかないが、歩く男性器・ジェローム君さえ手を出さないのを見るに、安易に否定も出来ない。本能の警鐘は、いつだって正しい。

「あの子なら射撃場にいる。教えてあげるなんて、なあんて優しい父親だろう!」

 ビールと米でたるんだ腹を掻きむしり、親父は意地悪く目尻を歪める。残忍な夫人がいなければ、その頬を張っていた。腹の底に湧いた憎悪を胃腸で吸収させて、苦笑で場を切り抜ける。消化不良で、生活習慣病を患いそうだ。無言できびすを返し、SAS専用に臨時で設けられた射撃場へ向かうと、後方で中隊長の嫌がらせが敷地中に炸裂した。

「小隊長が遅い青春を謳歌するぞーっ!」

 嗜虐に満ちる女の哄笑がそれに続いた。ちくしょう、事故に見せかけて葬れないだろうか。半ば本気で軽装甲の切断に要する導爆線の長さを計算しつつ、洗濯済の衣類を回収して、親父夫婦から逃げ去った。


 濡れた洗濯物とブーツを収めた袋をベッドへ放り、迷彩スモックを羽織りながら兵舎を駆け出すと、新たな汗が首筋に生じた。戦闘時より打ち震える心臓に、全身の筋肉がスペック以上の瞬発力を生み出す。ひび割れた地面に何度かつまずき、片手で地を打って持ち直す。――あいつめ、どうして真っ先に顔を見せないんだ。独善的な苛立ちが先立つも、矮小な独占欲はそれを上回る感情に脇へと追いやられた。だらしなく緩んだ髭面から、歓喜が零れる。「長かったぞ……!」

 ――あの子との出逢いは、もう二年前になる。出生より後ろ暗い過去を引きずり、精神を腐らせた俺は世界屈指の特殊部隊に身を置きながらも、ガラス細工に等しい神経で生き長らえていた。日常生活さえままならず、肉付きばかりは良い、歩く死体と化していた。理性的な脳を失くした男が銃を振り回しているのだから、同僚は生きた心地がしない。

 次男坊の人間味の欠落に業を煮やし、父親は「性奴隷と同居」と極めて狂気的な策を講じ、息子の癌細胞除去を試みた。血で血を洗う紆余曲折を経たが、親類と戦友の支援、何よりも一人の少女が手向けた慈愛が実を結び、ヒルバート・クラプトンは自らが造った牢獄を脱した。無益な贖罪に別れを告げ、己の欠陥を認め、残りの生を謳歌する、本来なら掴み得ない選択肢へと馬鹿な俺を導いた少女こそ――。


 鬱蒼たるコンクリートの森が途切れ、視界が開けた。直後、乾いた空気をカーン、と小気味の良い音が駆け抜ける。同じ衝突音が断続的に、前方から木霊する。何処までも澄んだ空の下、目前に広がる、砂山と土嚢を積んだだけの屋外射撃場。乱雑に配置した標的の円盤が、着弾の衝撃に揺れている。

 陽光に鈍く輝く真鍮薬莢が、スエードのブーツの許に散らばっている。身に纏う砂漠戦闘服の生地が大分余っており、ベージュのキャップから延びる、灰色の強いブロンドが微風にたなびく。その手に握る、我々の官給品より長いカービンの銃身が、すうと地面へ向く。背後の荒い息遣いに気付いたか、はたまた女の勘か、小さな背中が時計回りに振り向く。中東へ派遣されて三箇月。我々と同じ日焼け止めを使っているにもかかわらず、その肌は赤子同然に透き通ったままだ。眠たげな目蓋に縁取られた碧眼は、湖水地方より深い蒼をたたえている。ようやく、自分が収まるべき場所に戻った実感があった。

 酷暑の射撃場にひとり佇んでいた彼女は、腕に獲物を抱えたまま、自然な微笑みを投げ掛ける。傾き始めた陽を背に、桜色の唇が柔和な音色を奏でる。

「……お帰りなさいませ」

 僅かに首をかしげる少女の表情に、それまで抱いていた感情全てが抜け落ちた。ふらり、と身体が少女へと引き寄せられる。戦場に似つかわしくない、あどけなさの残る卵型の美貌へ歩み寄る。万感の思いで、自分の胸にまでしか届かぬ、小さくもかけがえない存在を抱いた。歳に不相応で、穏やかな声音が囁く。

「お疲れ様です、ヒルバート様。ご無事で何よりです」

 ――この少女こそがブリジット。瀕死の馬鹿野郎を絶望の淵から引きずり上げ、そいつに生きる道筋を示した、うら若き水先案内人。そして、俺にとってただ一人の恋人だ。

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