第5話 まず、そろりそろりと参ろう、と、ルキノさんは言った

 英語を日本語にするには、その曖昧さをどうごまかすか、という問題がある。

 まあどの言語でもそうなんだけど、ヨコのものをタテの、互換が保証されていない言語だとそれが顕著になる。

 たとえば、「スローリィ」という英語は、一般的には「ゆっくりと」と訳しておけば、大学受験英語ぐらいなら特に問題はない。特に「リィ」と「りと」の相性は抜群だ。「クロースリィ」だったら「ぎっしりと」になるよね。

 ただ、「スロー」は「ゆっくり」に対して「オ」の音が入っている。その音を入れると、たとえば「おもむろに」とか「のろのろと」になるんだけど、そうすると「リィ」の「り」の音がうまくいかない。

 ルキノさんは、だったら「そろりと」はどうでしょう、って提案したけど、そんな日本語は今までに聞いたことない。調べたら確かにある。「お」と「り」の音が入ってるから、一般的な語だったら使えるのになあ。

 まず、そろりそろりと参ろう、と、ルキノさんは言った。

     *

 運動部の朝練は、基本的に声を出さないことになっている。うるさいですからね。野球部とかテニス部とか、ボールの音だけでもやかましいのに、オラオラァ、とか早朝から叫び合ってたりしたら周辺の住民から苦情がくるだろう。体育会系文化部の合唱部と音楽部は、防音がしっかりしている特別棟の教室で、隔日にひっそりと(英語で言うとシクリタリィ)朝練をする。演劇部はしょうがないので、毎日体を鍛える朝練をする。基本的にランニングと筋トレかな。放課後になるとどの部もものすごくうるさい。

 全体に肉と身長が足りていないライミは、一緒に短距離を走った先輩(新3年生でスッポンって偽名の人、本名はカワズさんかな)に楽勝で負けて、そんな言い方はないけどとりあえず。これはすこし日本語に不自由というわたしの初期設定ということにして、それでも勝手にシャワーを使ってもいい権利を得た。スッポン先輩がひとりでそんなことを決めていいのかとは思ったけど、どうもいいらしい。先輩は、よかったらうちの部に入ってみないか、わりと筋がいいよ、と言って、ライミにスポーツドリンク、スタートの合図をしたパルマ、それに見ていただけのわたしとルキノさんにも温かい飲み物をおごってくれた。

 この丘の上にある学校に付属している運動場は、場所的にもう拡張できないし、50メートル以上の直線トラックは作れないので、実はあまり使われていない。丘の下にはちゃんとした大きな運動場と全天候型のトラックがあるから、運動部はおもにそちらを使っている。シャワーの権利にボロいグラウンド整備の義務がついた、ニセお買い得物件みたいなものだ。

 わたしたち、同じクラスの美少女枠(仮。というよりほぼ映像トリック的な何か)である4人は、ボロい運動場が南側に見える、日当たりのいいベンチで、桜吹雪を浴びながら話をした。ルキノさんはわたしの体にかけてくれたタオルケットに一緒に潜り込んで、お互いにあたたまった。

「ちゃんと走るにはまず、歩数を数えるわけよ」と、ライミは説明した。

「早い人のポーズをいくつか見て、体型を計算して、自分に合った走りのイメージを作る。身長が1メートル80ぐらいある人とあたしだと、6分の5ぐらいちがうんで、その人の5歩分をとりあえず6歩分に計算し直す。で、ざっくり100メートルなら10メートル単位で歩幅と歩数を計算する。前半の10メートルと同じ勢いで最後の10メートルは走れないから」

 なるほど。脳で作られるものを体で表現できるよう訓練するわけか。

「あーもう、だから100メートルだったらそういうイメージトレーニングやってるあたしは、先輩といい勝負ができたと思うよ。もう、あの人はがーっ、って走るだけでそれなりに鍛えてるから素人には全然勝てないわけよ。あと、だからこの学校の陸上部は弱いんだよ」

 ライミは先輩がいなくなったら勝手なことを言う。

 わたしは、ふたりが走った動画をそろりと再生してみた。ああ、確かに先輩の走りポーズは美しいなあ。

 わたしの携帯端末を覗き込んだライミは、明らかに驚きのアクションに見える動きをした。ライミは驚いた、って書けないのが一人称(わたしの語り)で語られる物語のやっかいなところである。

「こ、こ、これは」

「なんかおかしいかな。ネットに公開はしないから安心して」

「走ってる先輩が、フレームの真ん中にずっと写ってる」

「まあ数秒だからね」

「手ブレもしていない」

「補正機能あるし。撮ってる右手を左手で支えてたから」

 こんなことで驚くというライミに、わたしのほうが驚いた。そりゃ、ハヤブサをちゃんとフレームの真ん中に入れて撮る、なんてことはできないけど、一定の速度で動くものは、脳内でざっくり計算してなんとかなるだろう。ピントまで合わせなければならないような、昔のフィルム時代の映画だったら職人さんの仕事だろうけど。

 わたしは、ライミに強く両肩をつかまれた。

「あたしを撮って!」

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