エッグ・オン

@Nash_Keiss

エッグ・オン Ⅰ

 窓に生卵がこびりついていた。

 オフィスビル、分厚いペアガラスの外側、通りに面した窓に卵が付着していた。卵黄が破裂した掌大の染み、放射状に飛び散った卵白のヌメリ、粉々に割れた卵殻の破片が渾然一体となり、重力に引きずられて垂れ下がっていた。それは気味の悪い粘度を持ち、ネットリと光って風景を歪ませており、生理的な嫌悪を催させた。

 矢口は朝、出社してすぐにそれを発見した。八時半、まだオフィス内に人影は少なく、気づいている者はいないか、気づいていても気づかぬふりをしているようだった。矢口は入社から半年足らずの新卒社員で、オフィス内で最も使い走らされるひよっ子であり、つまりこういう面倒ごとは彼の担当だった。他の誰も自ら動こうとはせず、黙ったまま矢口が何らかの対処をするのを待っていた。いずれにしろ、それは矢口のデスクのすぐ横にある窓であり、否応なく視界に入れざるをえない場所だった。

 矢口は最初の驚きから立ち直り、他の社員たちと同じように気づかぬ振りをしようとした。PCを開いてメールチェックをし始め、大量に押しつけられたタスクをどうにか秩序立てようとした。しかし視界の隅にあるヌルリとした物体がどうしても気になり、集中することができなかった。イライラと視線をやっては眉をひそめ、神経をそばだて、居心地悪くかぶりをふった。

 オフィス内の人間にできることはないはずだった。窓は嵌め殺しになっていて、掃除するためには屋上から吊られた清掃員が降りてきて拭うほかなかった。下からモップか何かを伸ばしてもいいかもしれないが、ここは四階であり、それだけの長さのあるモップが存在するかどうか矢口には分からなかった。どちらにしろビル管理会社の管轄であり、フロアのひとつに入居する会社のいち社員の仕事ではないはずだった。

 にも関わらず、生卵は目の前にあった。矢口はその窓ガラスを見つめ、手を触れてみた。向こう側にへばりつく粘性の物体の感触がこちらからも分かるのではないかと思った。その禍々しさをもってすれば、透明な窓などなんの障壁にもならないような気がした。それは文明社会の外部から現れ、僕らが縛られている秩序をあざ笑うかのようにへばりついていた。今にも飛び散った液体が寄り集まって動きだし、粘菌めいて窓枠から浸入するのではないかと、このガラスの城であるオフィスフロアにその身を現すのではないかと思った。

 ドロリとした歪みの向こうに、男の姿があった。男は若く、矢口と同じくらいの年頃だったが、髪の色が薄く、ほとんど銀色のようだった。男は路上に立ち、早足で各々のオフィスへ向かう会社員たちの洪水も意に介さず、まっすぐこちらを見ていた。潰れた生卵を珍しがっているのかとも思ったが、そうではないようだった。矢口の目線に気づき、手を振ってニヤリと微笑んだ。そしてウインクし、ふっと姿を消した。卵白が垂れ、ガラスに突いた掌の上をなぞった。矢口は身震いした。




 鶏卵は〈ガルス・ガルス・ドメスティカス〉、ニワトリの卵である。炭酸カルシウムの卵殻に覆われ、長楕円体を尖らせた形状を持つ。平均53g、21日以内に孵化する。豊富な栄養と高い生産性ゆえ、ピラミッドの建てられる時代から人類にとって重要なタンパク源であり続けている。集密生産が可能であり、卵が転がり落ちるよう傾斜のついた24㎝×35㎝のケージに二羽ずつ配置され、レーンから飼料を与えられる。産卵期に入ると日に0.7個の卵を産み、十二ヶ月間卵を産み続ける。産卵期を終えた雌鶏は屠殺され、種によって食肉にされるかもしくは単に破棄される。

 国際連合食糧農業機関によれば、2016年に地球上で飼育された雌鶏の数は73億羽、鶏卵の生産量は1兆3000億個である。日本は国別生産量で五位の位置につけており、この順位は食糧自給率の低い当国において例外的に高い。近年、集密ケージでの養鶏は非人道的であるとして禁止を求める動きが欧州を中心として起こっているが、日本の業界団体は関知していない。量産された鶏卵は安価な食料品としてスーパーマーケットに並び、庶民の食卓に上り続けている。


 とはいえ、食べるだけが用途ではなかったわけだ、と矢口は思った。そもそもニワトリは人に食べさせるために卵を産むのではないわけで、ヒナを孵してヒヨコにするのが本来の機能だ。ワクチンを作るのにも使われるし、イースターでは色を塗って飾り付けにする。そして投げたりもする。人や建物に投げて抗議する。石や手榴弾を投げたら大事なわけで、怪我をさせないまでも迷惑をかけたいときに使うのだろう。器物損壊の罪に問われるかは微妙なレベルで、ちょっとした不快感を与えることができる。いま僕が不快感を感じているように。

 九時になり、社員たちは少しずつ集まっていたが、窓の汚らしい物体に言及する者はいなかった。みな一瞬眼をやって顔を強ばらせはするが、すぐに目を背け見ない振りをするのだった。

 矢口は十秒ごとに窓に視線を吸い取られた。卵は徐々に重力に負け、粘性のゆるい部分を下へ垂らしていた。幸いにしてスライム生物のように自ら動き出すということはなかったが、粘性の高い部分は未だにベットリとガラスにへばり付いており、清廉なオフィスフロアに不快感を振りまいていた。自然に任せたままで視界から立ち退いてくれる望みは薄そうだった。

 矢口は仕事を始めようという試みを諦め、清掃員を捕まえにいくことにした。廊下で掃除機をかけているか、トイレを拭いているか、いずれにしろどこかに誰かがいるはずだった。直接面識があるわけでもシフト表を見たわけでもないが、目撃頻度と経験則からすればそうだった。室内清掃を担当している彼ら自身にあの気味の悪い卵をどうにかすることが出来るかは知らないが、上司に連絡して助けを呼ぶなりなんなり、矢口の代わりに打てる手を打たせるつもりだった。

 清掃員は七階で見つかった。その中年男性は皺くちゃの手で掃除機をモタモタと働かせ、もはや塵ひとつないように見える片隅を何度も吸っていた。朝早くから掃除機を抱え、重箱の隅をつつくようにして下から順に階を上がってきたようだった。

 声をかけると、中年男性ははじめ聞こえないような振りで無視したものの、何度目かでようやく観念し、わざとらしい溜息をついた。掃除機を止め、眉をヒクつかせて攻撃的な眼を向けた。

「雑巾はトイレにあります」中年男性は追い払うように言った。「コーヒーを零したんでしょう。拭いて、洗って、絞って、戻しておいて下さい」

「コーヒーじゃありません。卵なんです」 

「卵?」中年男性は唾を飛ばした。「またですか」

「前にもあったんですか?」

 中年男性は心底うんざりしていた。まるで目の前に立っている若造が何もかも悪く、自分がビル清掃などという低賃金の不本意な仕事に貶められているのもお前のせいなのだとでも言いたげだった。

「朝見たときはありませんでしたがね。どこなんです」

「通り沿いの、四階の窓です。前にも同じことがあったんですか?」

「四階? そりゃ無理ですな。二階くらいまでだったらやりますがね、四階は無理です。外壁の業者を呼んで下さいよ」

「良くあることなんですか?」

「いたずらですよ。こら辺のビルに卵を投げつける輩がいるんです。業者はみんな困ってるんです。毎日じゃなく何日かにいっぺん、朝来るとひとつかふたつ、卵が壁やらガラスやらにへばりついてる。もうベットリとね。水をかけたくらいじゃ取れやしない。手にもネットリ付いちまう。警察にも言ったんですがね、取り合っちゃくれないんです。もう何ヶ月もですわ」

「どこかの会社が恨みを買ってるとかでしょうか」

「知りませんよ。どこの会社がってんじゃなさそうですが。こらへん一帯全部ですからね。さあ、掃除機の続きをやらせて下さい」

 中年男性は掃除機の電源を入れ直し、さも忙しそうに掃除機をかけ始めた。

「待ってください。外壁の業者を呼ぶんでしょう。今すぐ呼んで下さい。卵がくっついてるのは僕のデスクのすぐ横なんです」

「私が?」中年男性は顎を突き出した。「馬鹿言っちゃいけない。管理会社に言って下さい。私は室内清掃を請け負ってるだけですからね。手が届く範囲の卵を拭いてるだけでも大サービスなんです。ご自分で電話なさい」


 矢口は管理会社に電話し、事情を説明して業者を呼ぶように説得した。余計な出費に管理会社は渋っており、実際にどうなっているのか眼で見て確認しないことには業者は呼べないと言いだした。午後になってようやく管理会社の社員が顔をみせ、何度も何度もお辞儀しては名刺を振りまきながらオフィスをうろうろし、不可解なほど時間をかけて窓を検分してから、のらりくらりと難癖をつけて逃れようとした。その頃には矢口の苛立ちは頂点に達しており、新人相手だからといって本来なされるべきサービスを履行しないのは不当であり、これ以上は互いの上司を巻き込まねばならないと言い渡した。社員はしぶしぶ説得された。

 結局、業者は次の日まで来なかった。矢口はその午後を、夜を、次の午前を、生卵と共に過ごした。

 生卵は徐々に腐敗していた。オフィスビルという無機質の塊にその身を張り付かせたまま、有機体としての性質を存分に発揮していた。目ざとい蝿が四階の高さを上がってきており、垂直な壁をものともせず栄養分を貪っていた。卵白は白く、卵黄は茶色く変色しており、大気中の排ガスを吸って黒ずんでいた。水分を失ってガピガピになり、より粘度を増してガラスに癒着していた。その様は精液のようにも見えた。身の丈数十メートルの巨人が道路に立ってペニスをしごき、オフィスビルに向かってその滾りを放出していったかのようだった。ぼくはそれが無精卵であって欲しいという奇妙な願いを抱いた。




 投げられた卵の件はそれで終わったと矢口は考えていた。屋上から吊られた作業員は矢口の見守る前で手際よく片をつけ、アルコール除菌までして行った。跡形はまったくなく、他の窓よりもずっと綺麗になったくらいだった。だが一週間後、卵は再び矢口の前に現れた。

 自動販売機に缶コーヒーを買いに来ていた時だった。そこはちょっとしたベンチと自販機にゴミ箱がひとつになったエレベーター近くの小部屋で、無謀なことにカフェ・スペースを名乗っていた。矢口は無駄な会議に出席させられてひどく疲弊し、そのうえ良い経験と称して誰もやりたがらない不毛な作業を押しつけられ、いつものごとく夜中までの残業が確定していた。矢口にはリフレッシュか、少なくとも気の紛らわしが必要だった。

 カフェ・スペースには先客がおり、矢口は中を覗きこまないまま外側からそれを認識した。扉はないため、気配だけで十分にそれと分かった。どうもごそごそと何かをやっており、缶コーヒーを飲んでいるわけでも座って休んでいるわけでもないようだった。中のスペースは二人には狭すぎ、矢口は少しのあいだ近くで様子を見たが、出てくる様子がないので仕方なく中に入っていくことにした。矢口は先客が侵入者に驚かぬよう、足音を立てながら近づいた。

 突然、先客がスペースから飛び出してきた。矢口が入る間際に駆けだし、肩をぶつけ、廊下を走って行ってしまった。顔を低くしていたため、それが誰かは分からなかったが、このフロアに居るということは同じ会社の社員の何者かであるはずだった。

 矢口は驚き、その場で尻餅をついてしまった。前を見ろと罵るべきだったと思ったときには遅く、未消化のむかつきが胸にわだかまった。憤慨して立ち上がり、行き場のない苛立ちをこめて自販機を叩いた。その拳にネットリとした何かが付着した。

 それは卵白だった。自販機と床に卵白が飛び散っていた。それは広範囲に、パッと見では分からないような薄さで飛び散っており、大雑把に拭い去られていた。殻が散乱していたが量は少なく、細かい破片だけで、卵黄もなかった。先の男が慌てて拭き取り、途中で矢口が来たために放り出して行ったらしかった。ゴミ箱にはティッシュペーパーの塊が積まれていた。それを一瞥して、信じられないものが目に映り、また見て、息を呑んだ。

 矢口はゴミ箱を漁った。ティッシュペーパーを開き、内容物を調べた。そこにあったのはいくつもの胚、有精卵から発生して小さな蛙のように成長し、ドロドロの卵白と共にティッシュペーパーで包まれた雛の成りかけ、ピンク色のグロテスクな生物たちだった。

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