嬉しい夜の危険な乾杯◆カクヨム限定公開SS◆
アイリーン王女殿下の婚約式を、無事に終えた夜。
舞踏会が開かれた銀王宮は、華やかな喜びに包まれていた。
婚約式を
その相手は、ステンドグラスと絵画の第一人者。主の一人であるライナスだ。
彼と踊れるのは光栄だが、舞踏会に参加しているご令嬢たちの視線が痛い。彼女たちがライナスに突進して来ないよう、こういった場では女装をして彼のそばにいることも〝男〟のジルの仕事なのだが、やはり嫉妬の視線にはいまだに慣れない。
とはいえ、きれいなドレス姿でライナスと踊れるのは、素直に嬉しい。
田舎では〝壁の花〟と噂されていた男爵令嬢のジルにとっては、密かなご褒美のようなものだ。
曲が終わり、ジルはライナスと向かい合ってお辞儀する。彼と視線を交わし、笑った。
「楽しいですが、息がきれてきました」
「たしかにね。少し休もう」
バルコニーへ出ると、月明かりに照らされた庭園が見える。初夏の夜風が心地よくて、ジルは目を閉じて息を吸った。そうしてからまぶたを開けると、隣のライナスがじっとこちらを見ている。
「なんですか」
小さく笑んだライナスは、ジルから視線をそらさずに言った。
「しみじみ、女装の君がきれいだと思ってね」
うっ、と息をのんだジルの頬に、熱が走った。
女性であることは、四人の主たちにバレてはいない。お世辞にいちいち顔を赤くしていたら、怪しまれてしまう!
焦ったジルがとっさに視線をそらそうとした矢先、建築家であるもう一人の主、カーティスがグラスを持ってやって来た。
「めでたきこの夜に、乾杯しよう」
そう言ったカーティスは、精悍な顔立ちに笑みを浮かべた。指を鳴らし、飲みものを運んでいる使用人を呼ぶ。グラスに入っているのはどれもお酒だ。
「どうした、美女の少年。アルコールははじめてか?」
「ええ……あの、おいしいんですか?」
「十八なら、お前も大人だ。記念すべきこの夜に、挑戦してみろ」
試してみなければわからないぞとカーティスにすすめられ、ジルは白ワインのグラスを手にした。乾杯し、飲んでみる。
(あら、おいしいわ……!)
「ジュースみたいに飲めます」
喉が渇いていたせいか、するすると飲めてしまう。ジルがグラスをあおっていると、
「待つんだ、ジル。いっきに飲むものじゃない。ジュースのように飲めても、アルコール度数はキツいんだ」
ぎょっとしたように目を丸くしたライナスに制される。だが、カーティスは「いい飲みっぷりだ」と喜んだ。
身体がふわふわとしてきて、目に映るものすべてがきらめきはじめる。すっかり飲み干してグラスを空けたとき、アンドリューとレイモンドがやって来た。
「ここにいたのか」
そう言ったのは、服飾や装飾の流行を生み出すアンドリューだ。鋭い眼差しでまじまじとジルを見下ろすと、感心するように嘆息した。
「まったく……うまく令嬢に化けたものだな。お前が男の助手だなんて、自分の目を疑うしかない」
アンドリューの針のような視線も、ワインをいっきに飲んだジルには怖くない。むしろ、おおらかな気持ちで受け止められるから不思議だ。
常々思っていたことを、言ってみたい衝動にかられる。いっそのこと助手として、たまには苦言を
(そうよね、私は助手だもの。彼らのためになることなら、言ってもいいはずだわ!)
気持ちが大きくなったジルは、頬をゆるませながら口を開いた。
「アンドリュー様は、どうしていつもそういう怖い目をするんですか? 悪い人ではないとわかっておりますが、あまり笑わないし、もっとにっこりしたほうがいいと僕は思います。そうしたら、敵を作らずにすみますよ?」
アンドリューは眉をひそめた。
「お前、酔ってるのか」
(まさか! たったの一杯で酔うはずないじゃない。頭はぐらぐらしているし、身体もふわふわしているけれど)
「酔ってません」
ふふんとジルは胸を張って見せた。
「いや、酔ってる」
ライナスはどこか不安げだ。心配することなどなにもない。大丈夫ですよと告げる代わりに、ジルはへらりと笑った。すると、作家であり音楽家でもあるレイモンドが、眼鏡を指で押し上げた。
「私は性悪説をテーマにしています。彼の働きぶりには目を見張るものがありますし、認めざるをえないものの、もしも酔ったことによって、善人な彼の本性がかいま見えるのであれば、ものすごく興味深い……!」
レイモンドの瞳がキラリと光る。ジルはクスクスと笑った。
「レイモンド様は、ややこしいことを考えるのをやめて、ときどきでいいですからリラックスしてください。そうやってなんでも難しく考えて、世の中を斜めに見てばかりいるから、作品も重厚で難解になってしまうんだわ」
……だわ?
四人が固まる。そんな四人にかまわず、ジルは気分よく続けた。
「もちろん僕は、そんなレイモンド様の作品も好きですけれど、『愛と裏切りの湖畔』のような単純明快な作品も好きなのです。あれは女性だけが好む作品と思われておりますが、ドラマチックな展開にページをめくる手が止まらなくなるんですから……本当よ!」
……よ?
とたんに、なぜか焦ったライナスが、ジルの腕を掴んで引っ張った。
「よし、君は酔ってる。もういいから黙って。少し庭園を散歩して、酔いを冷ましたほうがいい」
酔ってませんと言うジルの腕を引いて、ライナスは強引にバルコニーから庭園に下りた。いったいどうしたというのだろう?
「な、なんですか、ライナス様!」
「いいから、ここを離れるまで静かに。それ以上しゃべったら、君のお口を縫い付けるよ」
よくわからないが、話してはいけないらしい。ジルがきゅっと口をつぐんだとき、カーティスが困惑の声を上げた。
「おい待て、ライナス。ジルの口調がおかしいぞ」
おかしくないわと言いそうになったジルは、ライナスと視線がからんで言葉をのむ。ジルが黙っている隙に、ライナスは早口でたたみかけた。
「酔ってるせいだ。それにほら、ドレスを着ているからね。自然にそうなってしまうこともあるんだろう」
彼の声が、ジルの耳にはどこかぼんやりと届く。ああ、なんて気持ちのいい夜風だろう。まぶたを閉じようとした寸前、
「そんなことがあるのか?」
アンドリューの眉間の
「たしかに、服装で人格が変わる症例はあります。ひ弱な王子が国王となって、王冠を頭にのせたとたん、立派に振る舞ったという異国の症例を読んだことがありますから」
……なるほど。
そんな彼らの会話も、ジルにはさざなみのように聞こえた。
(気持ちが軽くて、とっても楽しいわ……!)
ライナスに腕を掴まれながら、ジルはおぼつかない足取りで庭園を歩いた。
「あの、ライナス様。もう話してもいいですか」
立ち止まったライナスが、バルコニーを振り返る。それにつられてジルも顔を向ける。三人の姿がずいぶん小さくなった。
「ああ、そうだね。いいよ」
ふたたび歩みを進める。そうしていると澄んだ空気に心が
「ライナス様、手を離してください。走ってジャンプをしたら、なんだか空を飛べそうな気がするんです!」
「君が風船みたいに飛ばないよう、しっかり掴んでいないとね。だからいまは離せないな」
やがて噴水まで来ると、ライナスはジルの腕を掴んだまま、ほうっと深く嘆息した。
「……生きた心地がしないとは、このことだな」
「えっ? どうしてですか」
ジルが首を傾げた瞬間、ライナスはクスクスと笑みをもらしはじめた。
「なんですか。なにが面白いんですか?」
ライナスは呆れたように、けれど優しげな眼差しでジルを見下ろす。
「酔いを冷ますんだ、おバカさん」
ジルの鼻頭を、くいっと指先でつまむ。
「――ひゃっ! よ、酔ってません!」
そう言ったものの、鼻をつままれた驚きで、いまにも地面から浮きそうだった両足に、しっかりとした重力が戻ってしまった。
(……え、待って。私、もしかして酔っていたの?)
その自覚はまるでない。酔った経験がないからわからないのだ。とたんに、アンドリューやレイモンドへの発言を思い返し、青ざめた。
(わっ……うわ……大変! 私、女性言葉を使ってしまったような気がする!)
どんなときでも気をつけていたのに、酔って気が緩んでしまったせいだ。
ライナスを見上げたジルは、言い訳を必死に絞り出した。
「ぼ、僕はあの……その! なにもかも、このドレス姿のせいなのです! カツラをかぶってお化粧をして、このきれいなドレスを着ていると、どうしても女性のような気持ちになってしまうといいますか……っ!」
「大丈夫、わかってるよ。そう思ったから、僕も皆にそう言ったんだ」
のんびりとしたライナスの声音に、ジルは胸を撫で下ろした。
(よかった……! ライナス様にも誰にもバレてはいないわ)
「そ、そうでした。ご理解くださって、ありがとうございます!」
ジルはペコリと頭を下げる。そうして顔を上げたとき、ライナスに苦笑された。
「それにしても、もういつもの君に戻ってしまったとはね……ちょっと残念」
「え?」
ライナスが顔を近づける。いたずらっぽい瞳が、間近できらめく。
「素の君と話せるかと、ちょっと期待したんだけれどね。まあ、しかたがない」
「素の……僕ですか? これが素の僕、なのですけれども……」
意味深な彼の言葉がひっかかる。ドキドキしながら見つめ返していると、ライナスは柔らかく笑んだ。
「空を飛べそうな気分は、冷めたのかな?」
「うっ……はい。すっかり冷めてしまいました」
「じゃあ、またそんな気分になりたくなったら、僕が君にワインをごちそうしてあげるよ。ほかのみんなには内緒でね」
「えっ?」
ライナスの手が、腕から離れた。
「酔いが冷めたのなら、戻ろう」
そう言ってジルの左手をそっと握ると、バルコニーに向かって歩き出す。三人の姿はもうなかったが、舞踏場から優雅な音楽がもれ聴こえていた。
それにしても、気になる。
「ライナス様。あの……いまのは、どういう意味ですか」
「なにが?」
「ですからその……皆さんには内緒で、ワインをごちそうしてくれるという意味です」
「僕の前でだけ、酔ってもかまわないってことだよ」
「えっ?」
「素の君を見てもいいのは、僕だけの特権にしておきたいからね」
「と、特権?」
考えたくはないが、まさか彼にだけバレている? いや、それはない。もしもそうなら、とっくにクビになっているはずなのだから。
ジルは内心ヒヤヒヤしながら、横を歩くライナスを見上げた。その視線を察したのか、ライナスは魅惑的な笑顔でジルを流し見る。
「深い意味はないよ。さあ、着いた」
本当だろうか。ジルはビクビクしながらバルコニーへ上がり、シャンデリアがきらめく舞踏場に戻った。
ライナスに手を取られ、音楽に身をゆだねる。ライナスの瞳の奥が、ちょっとだけ意地悪そうに輝いて見えるのは気のせいか。
「……あの、ライナス様。楽しそうですね」
「ああ。深い意味はないと言ったのに、僕のその言葉の意味を、君がぐるぐる考えていることが手に取るように伝わるからね」
「か、考えてません!」
「そうかな?」
ぐっと腰を引き寄せられて、顔が近づく。ニヤッとしたライナスは、ジルを見つめて言った。
「深い意味はないよ、本当だ」
うっ、と息を詰めるジルの腰を、ゆっくりと離す。もしかするとライナスも、少し酔っているのかもしれない。
「もしかしてライナス様も、酔っているのですか?」
「こんな夜だ。みんな酔うさ」
今夜はみんな、ちょっとだけ浮かれている。喜ばしい舞踏会の魔術にかかって、言動がいつもよりもおかしいだけ。明日になれば、いつもどおり。それだけのことなのだ。
ジルはやっと安堵した。とはいえ、今夜はまたひとつ学んだ。
ワインの魔術は恐ろしい。もう二度とお酒は口にしないと、ジルは苦い顔で自分に念を押した。
「しかめ面だね、ジル。どうしたの」
「いっ……いえ、なんでもありません」
ドレスをひるがえし、くるんとまわりながら、正体を隠しているジルは思う。
そう――誰の前であっても、飲んではならない。もちろん、ライナスの前であっても。
その誓いを、ジルは頭のなかのメモに、新たに記したのだった。
END
男装令嬢とふぞろいの主たち/羽倉せい 角川ビーンズ文庫 @beans
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