第2章 前途多難な日々のはじまり_3
午前。カーティスに資料を
広い室内の壁一面に、
思わずドレスに見とれたものの、
「荷物です」
それだけ告げて、小包をローテーブルに置いて出た。ほうっと息をつく間もなく、今度はライナスに用事を頼まれる。
絵画、
(飾られていない物がこんなにあるなんて。もう一つお城があっても、
一つくらいなくなっても、
(めまぐるしく動きまわっているせいか、時間の
ジルが
「どうした、アンドリュー」
立ち止まったアンドリューは、紙包みを
「届いた
あ、とジルは思いあたる。さっき届けた小包だ。
「
「いつものところじゃないんだ」
「イルタニア産のシルクシャンタンは、うまく使えば美しさが増す。だが、デイランド産よりも色の深みが強すぎて、
「だったら、ジルに頼めばいい」
カーティスが言う。アンドリューはジルを冷たく
認めてもらうには、すべての仕事をきっちりとやりきるしかない。そう
「アンドリュー様、僕が行きます。シルクシャンタンは知っています」
太さの違うシルク糸を
「知っている……だと? お前が?」
「母や妹に
アンドリューの視線は、
「イルタニアの王太子殿下が来てから、
色はクロムイエローに決めていると、アンドリューはたたみかけた。
「見本をたしかめてから、仕上がったデザインにさらに手を加えるのが俺のやり方だ。ときには生地自体を変えることもあるから、俺には見本が必要なんだ。だが、届いたのは〝クロムイエローのシルク〟で、〝クロムイエローのシルクシャンタン〟じゃない。だから、正しい見本をいますぐ手に入れたい」
「わかりました。でも、産地までは判断がつきません」
アンドリューはジルに、紙包みを突きつけた。
「店員に聞け。住所はその裏に記されている。少しの時間の
目を
「俺が王女殿下のために作る──最後のドレスの生地だ」
──最後のドレス。
アンドリューの声音から、ジルはその言葉を重く受け止めた。
(彼にとって、大切な意味のあるドレスなんだわ。絶対に失敗できないことよ)
「はい」
やりとりを聞きつけたらしいライナスが、階上のカーティスの
「ジル。
「ええ。行ってきます」
しっかりとうなずき、ジルは芸術棟を出た。
北東の
住所をたどって生地屋を見つけ、馬車から降りて看板をたしかめる。窓からなかをうかがうと、婦人服と
ガラス戸を開けると、ベルが
「いらっしゃいませ」
ジルはさっそく見本を見せて、アンドリューに言われたことを伝えた。はっとした店主らしき紳士は、深々と頭を下げる。前にして重ねた両手が、大きく
「……これは……なんということを! 大変申し訳ありませんでした。店主である私が不在の間に、見習いが勝手に送り間違えてしまったのでしょう。とはいえ、言い訳にはなりません。どうか、どうぞ罪に問われるようなことだけは
「そんなことはありませんから、どうか頭を上げてください」
だが、店主は深くうなだれたままだ。
「いかがなさいましたか」
「……ベイフォード
息をついた店主は、震え声で言った。
「イルタニア産、クロムイエローのシルクシャンタンは、先日アッカーソン準男爵夫人が、すべて買い取ってしまわれました。すでに仕立て屋へまわし終え、その作業が進んでおります」
(──えっ!?)
謝罪する店主を、奥にいる夫人らしき女性が心配そうに見ていた。
デイランド産のものはあると、店主は言う。だが、それではダメなのだ。
「ほかに
とうとう夫人が姿を見せた。
「……たしかではありませんが、ハーレイに。結婚式のついでに、顔なじみの生地屋に寄ったとき、見た
「デイランド産のものでは?」
「光沢があきらかに違うので、イルタニア産のものだと思います。ただ、売れてしまっているかもしれません」
(それでも、ここで
ハーレイにある生地屋の店名と住所を聞いてから、ジルは礼を告げてあとにした。そこまでは、ここからさらに二時間かかる。なにも言わずに戻りが
もう一度店に戻ったジルは、電報局の場所を教えてもらい、すぐに向かった。遅れる
銀王宮に
「……戻りが
「アンドリュー、まあ落ち着け」
「……彼らしくないな」
ぽつりとつぶやくと、階上からレイモンドの声がした。
「
「ボビーの服?」
レイモンドは大階段を下りながら、今朝のことを説明した。それを聞いたライナスは、ますます
(……しかたがない。馬で追いかけるか)
そう思って腰を上げた直後、
「セラックから電報です」
それを受け取ったライナスは、文面を見て
「アンドリュー、彼は逃げてない」
広間へ行き、電報をアンドリューに
「いままでの助手なら、あっさりと帰って来たはずだ。しかしジルは諦めないらしい。待ってやれ、アンドリュー」
カーティスから電報を受け取ったアンドリューは、
「……どうせ、なにも手にできずに
「そうであっても、せめてねぎらってやることくらいは、すべきじゃないか?」
「ボビーの服が無事のようで、安心しました」
心配だったのはボビーの服かと、ライナスは内心笑う。それから広間を出て、ふたたび大階段に座った。
コーラル・レッドの色をした髪には、四つ葉の
いまさら思い出してどうするんだ? そう思って一人笑う。記憶になくて、当然だ。
──あまりにも、
深夜。馬車は銀王宮の門をくぐった。
馬車でずいぶん
(どうなることかと思ったけれど、なんとかなってよかったわ)
セラックからハーレイへ。しかし結局ハーレイの生地屋にもなく、
月明かりに照らされた銀王宮の
「無事に戻れましたな。さっさと眠ったほうがよろしいでしょう。明日も早いでしょうから」
「おつきあいいただいて、本当に申し訳ありませんでした。たくさん馬を走らせてくださった、あなたのおかげです」
「たかが生地、されど生地ですな。貴君のがんばりに、心から敬意を表します」
「あなたにも敬意を表します。本当にありがとうございました」
「おお、やっと戻ったな! お
カーティスが立ち上がる。もしかして、待っていてくれたのか。まさか、そんな。
「あの……?」
大階段を下りたアンドリューが、ジルの目前に立つ。ジルは紙包みを彼に渡した。
「遅くなって申し訳ありません。なかなか見つからなかったのですが、レディントンの生地屋にありました」
「レディントンだと!? お前はそんな遠くまで行ったのか」
「え? ええ。でも、そこの店主さんはとても喜んで、電報をいただけたらいつでも生地を持って
「……もしも見つからなかったら、どうするつもりだったんだ」
「それは僕も考えました。レディントンにもなければいったんここへ戻り、あなたに相談するしかないだろうと……」
ねぎらうべきか
「なぜ、諦めなかった」
「あなたが
ジルは正直な思いを伝えた。苦々しげに目を細めたアンドリューは、けれど観念したように
「ああ、
ありがとう、などとは言わない。その代わりに彼は、ジルのアスコットタイを指さした。
「その色はやめろ。俺なら明るめのブルーを選ぶ」
(えっ!……アドバイスははじめてだわ。もしかして、少しは認めてもらえたのかしら)
アンドリューはにこりともせずに、
「あの……もしかして、僕を待っていてくださったのですか」
「そうだ。もっとも、レイモンドは違うようだがな」
カーティスが苦笑いすると、レイモンドは気まずげに口をすぼめ、
「ボビーの服ですよ。いけませんか」
はっとしたジルは、思わず微笑んでしまった。
「お預かりしたままで、申し訳ありませんでした。僕が大切に保管しておりますから、ご安心ください」
胸ポケットを
「ご心配をおかけいたしました。
ジルが頭を下げ終えると、ライナスと目が合う。すると彼は、
「おかえり」
その言葉を耳にした
楽しい。そう──その感覚だ。
(このお仕事、
家族にしか見せたことのない笑顔が、自然に顔に広がっていく。ジルは三人の立つ階上を見上げ、満面の笑みで言った。
「はい。ただいま戻りました」
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