第2章 前途多難な日々のはじまり_2
夕暮れ間近になると、
心底安堵したジルは、外の空気を吸いたくなって庭園を歩き、
(ものすごく、
こんな日々があと三六三日も続くのかと思うと、先のことが思いやられた。
(……ううん、ここで働けるなんて、とても光栄なことだわ。たったの一年じゃない。一つひとつ乗り越えなくては)
そっと
「やあ、調子はどうだい」
「ええ。なんとかやっています」
ジルの
「よければどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
「昨日はバタついてて、ちゃんとした
右手を差し出されて、
「ジル・シルベスターです。出身はイーゴウ地方、父は男爵です」
「俺と同じ田舎貴族か。ここじゃなんだか、
士官学校を
「
「そうですね。なんとか続けたいと思っています」
それから、とりとめのない世間話をした。彼の家も裕福ではなく苦労をしていると知り、ジルは自然に親近感を
会話をしながら、お
「俺はそろそろ
「チョコレートをありがとうございます。久しぶりに食べました。おいしかったです」
「いいさ。俺はもうすぐ
「そうなんですか?」
「父の具合がよくなくて、
「そうですか。お父様、お大事に」
ありがとう。そう言って笑い、ユアンは王宮内に戻った。彼のうしろ姿を見つめながら、今夜は家族に手紙を書こうと、ジルは
主たちのいない
夕食を終えたジルは自室に戻り、明かりを灯してテーブルに着いた。
テーブル上には、四人のカテゴリーに
一時間ごとにカテゴリーを変えて学ぶ合間に、ジルは家族に手紙を書いた。
(……いない、のよね)
(昨日だって、一晩中いなかったんだもの。今夜だってお
よし! 急いで上着とベストを
「──ジル」
奥のドアが
「ラ、ライナス様!? お、おお屋敷に戻られていたのではないのですか! というか、ノックくらいしてください!!」
「やっぱりね。この部屋だと君は
男装しているからです、とは口が
「プ、プライベートな空間だから、守りたいんです! それよりも、どうしたんですかっ!?」
「君に礼拝堂を見せていなかったなと、ふと屋敷で思い出してね。さあ、行こうか」
たったそれだけのことで、戻ったというのだろうか。しかも、いまから? それは明日では、いけないのでしょうか……?
固まるジルにかまわず、ライナスは室内に入った。テーブル上の書物を見下ろすと、感心と言いたげに
(あっ──それは!)
「……『愛と裏切りの
終わった、とジルはうなだれた。もうダメだ。いや、
「い……妹が
信じてくれるだろうか。食い入るように彼を見つめていると、
彼を前にすると、平静だった感情は
「君は最長記録の助手になるかもしれない」
動けずにいるジルに近寄り、ニヤッと笑って
「アンドリューを黙らせた助手は、君だけだからね」
「そう……ですか」
「それに、午後は
(あのとき気配を感じたのは、ライナス様だったんだわ!)
ライナスからじりじりと退いたジルは、きゅっときつくタイを結ぶと、ベストと上着を急いで羽織った。さっさと礼拝堂を案内してもらい、自室に引っ込んでいただかなければ!
「では、礼拝堂へのご案内を、よろしくお願いいたします」
先にドアノブに手をかけて、
「じゃあ、夜の散策といこう」
思いついたら行動せずにはいられない。彼はそんな人らしい。マイペースの
無数の
「なんてすごい……いまにも語りかけられそうです」
立ち止まって肖像画を見上げるジルを、ライナスは横目にして笑んだ。
「僕の肖像画は多くない。これまでに描いたのは、現王族の方々と数人だけだ」
「えっ? そうなんですか」
「僕は他人に興味がないからね。だから、尊敬の念を抱くか興味を
ライナスが歩き出し、ジルも歩みを進めた。
「そういうわけで、いまは君を描いてみてもいいかなと、久しぶりに考えている最中だよ」
ジルを見て、ニヤリとした。うっ、とジルは視線をそらす。話題を変えなくては。
「げ……芸術棟に飾られているのは、ライナス様が描いたものですか?」
「そう、学生のときの作品だ。ちなみに君は、どうしてここへ来たの」
「芸術には、興味があります。生み出すことよりも学ぶことが好きなので、美術教師の資格を得たいと考えて来ました。僕の家は
ライナスが立ち止まった。
「なんだ。じゃあ、一年もしたら辞めるのか。残念だな」
「はい、そうです……」
ライナスは口を
(私、女性だってバレるような発言は、していないわよね)
不安を振り
「あの、ライナス様はどうして、ステンドグラスを
それを聞いた彼は、横顔に
「君の子どものころの夢は?」
「えっ? ええと……」
ない……いや、
「いまは美術教師ですが、子どものころは……とくにはありません」
ジルを流し見たライナスは、ふたたび前を向いて口を開く。
「僕は、
「魔術師……ですか?」
びっくりするジルに、彼は口の
「そう。でも、この世界に魔術はないし魔術師もいない。だけど、
「ステンドグラスや絵画は、僕の魔術だ」
さらりとしたその言葉に、ジルは
(……あれ。なにかしら……この感じ)
「ジル?」
ライナスが振り返る。ジルははっとして、ふたたび彼のうしろに続いた。
「あなたのステンドグラスを、父と
「それは光栄だ。あれからステンドグラスは創っていないから、僕の魔術は絵画だけになってしまったけれどね」
(──えっ?)
エルシャム聖堂の修復が終わったのは、五年前だ。それから一度もステンドグラスを創っていないのは、なぜなのだろう。そんなジルの疑問を制するように、ライナスは言った。
「創れないのはただのスランプだ。たいしたことじゃない」
五年間も? そう言いそうになってやめた。
(話したくないことみたい。気になるけれど、
「……あなたのステンドグラスを見て、僕も父もとても
ライナスは
廊下を曲がり、階段を上る。二階に上がると、
「そこが礼拝堂ですか」
「ああ。王女殿下の
彼が扉を引き開けた。優美な
(……きれい……!)
細やかな飾り細工の二階柱がずらりと続き、真正面にはまばゆく輝く銀のパイプオルガンがある。眼下の身廊には赤い
「婚約式当日の
「いまは見られないんですか」
「アーヴィル地方の職人たちによる
アンドリューはその仕上がりの
王女への祝福を込めたそのタペストリーは、イルタニアを
「デザイン画しか見ていないけれど、かなり素晴らしいものになるよ」
「楽しみです」
そう答えたジルに顔を向けて、ライナスは小さく笑んだ。
こちらの内面を
(やっぱり苦手だわ。早く
「礼拝堂、見せていただけて感謝します。ではあの……そろそろ戻りましょう」
ジルがきびすを返そうとした直後、彼が言った。
「一年後、〝教師になるのはやめてまだここにいたい〟と、君に言わせることにしたよ」
「えっ!? ぼ、僕に、ですか?」
「僕たちは気難しくて不器用だ。
近づいたライナスは、
(おかしいわ、どうしてこんなことになってしまったの? 私はなにもしてないのに!)
「ど……うすれば、僕への興味を失ってくれるのでしょうか。昨日も言いましたが、僕はたいした人間ではないですし、あなたにそこまで言っていただけるような
「だから、それを決めるのは僕であって、君じゃない」
そうであれば、つまらない
仕事で失敗する? そんな
(それにきっと、いまだけのことよ。私が
「…………はい」
彼が自分に
ゆっくり
翌朝。
ジルは奥のドアに耳をあて、ライナスの様子を探った。
(こんなはしたないことをするはめになるなんて、思いもしなかったわ)
洗面室で顔を洗い、身なりを整えてから
(彼らのスケジュールを管理するのも仕事よね。そうすれば、いつ誰が不在かわかるわ。もう少し慣れたら全員に
思いきり湯を浴びるのは、それからのほうがよさそうだ。
厨房のユアンと
「おっと、待って。バクスター
「ありがとうございます。なにも知らないので、助かります。でも、どうして僕に親切にしてくれるんですか」
ユアンは
「俺はもうすぐいなくなる。最後くらい、なにかいいことをしておこうと思ってさ」
親切で
食堂に入ろうとしたとき、紅茶を飲んでいるアンドリューが視界に飛び込んだ。
昨日のことがあって気まずいものの、グズグズしていたら朝食が冷めてしまう。ゴクリとつばを飲んだジルは、なんとか平静を
「おはようございます。紅茶のご用意もせず、申し訳ありません」
無言で紅茶を飲むアンドリューの前に、朝食を並べる。気に入らないと言いたげな
「お前は本当に、男なのか」
この一言が、飛び出すまでは。
(──え)
「
女性のサイズを熟知している、彼らしい
「そ……れは、僕にとってコンプレックスの一つです。もっとたくましい体型に、生まれたかったと思います」
これでどうだろう。ちらりと
「お前は昨日、俺の価値観に追いつく努力をすると言ったな」
「はい。言いました」
「口だけならば、どうとでも言える。俺の指摘から逃れるために
針のような彼の視線が、ヒリヒリとジルの
「俺は向上心のない者や、口先だけの人間が
婚約式は
(いいえ、
そう思い直したジルは、レイモンド用の朝食をのせたトレイを持って、ドア口に立った。
「わかりました。婚約式までにあなたに認めていただけるよう、
彼の険しい
(クビになるわけにはいかないもの。なんとしてでも、認めてもらうしかないわ)
意志を強くして深呼吸をし、手の震えを止める。姿勢を正したジルは、しっかりとした足取りで大階段を上った。
──古ぼけた気色の悪いぬいぐるみをコレクションしてる。
今度は前助手の言葉が
(……気色の悪いぬいぐるみって、なに?)
意を決して、レイモンドの書斎をノックする。返事はない。もう一度ノックをしてから、そっとドアノブを押し開けた。
(あっ……なんだ。テディ・ベアじゃない!)
大小あわせて、かなりある。どれもきちんと服を着ており、大切にされていることがよくわかった。しかも足の裏には、製造年が
(あれはお
毎年新しいものが出回り、年代物にはかなりの値が付くぬいぐるみ界の
(まさかここで見られるなんて、
はしゃぎたくなる気持ちを
「レイモンド様、おはようございます。朝食です」
「いりません」
「それではここに置いておきますので、あとで食べてください」
ローテーブルに置くと、「食べたくありません」と彼は言う。食べてもらってくれとライナスに言われている以上、このまま去るわけにはいかない。考えあぐねて突っ立っていると、レイモンドは
「なんですか。まさか私の友人たちを
表情を
「どうせバカにするのでしょう。しかし、もしも私の友人たちを貶めたなら、私は地の果てまでもあなたを追い
やりかねない。そういう顔つきだ。今後のためにも、誤解を解かなくては。
「バカになんていたしません。〝ベルージ社〟のテディ・ベアは、祖母も生前集めてかわいがっておりました。あの……できればもっと近くで見たいのですが、いけませんか」
ペン先を止めたレイモンドは、
「は? ええ……まあ……」
ジルはゆっくりと出窓に近寄った。
(ああ、とっても
「祖母は彼と同じものに、ペーターと名付けていました。それから、こっちのはマリアンヌです。もしも彼らにお名前がありましたら、教えていただけませんか?」
(──あっ、そうだわ!)
「よろしければ彼らのお洋服のほころびを、お直しさせていただけませんか? その代わりに、僕の運ぶ食事を食べていただくというのは、いかがでしょうか?」
レイモンドは目を丸くした。
「……あなたが、お直し?」
「はい。妹とよくそうして……」
(……遊んでいましただなんて、言っちゃダメよ! 私はいま男性なんだもの!)
テディ・ベアに気がゆるみ、すっかり
「は、母から大切にするよう、きつく言われておりましたので……!」
またもや苦しい言い訳だが、レイモンドはいぶかるでもなく、感心したように深くうなずいてくれた。
「……ほう、
眼鏡を指で押し上げると、レイモンドはため息交じりに言った。
「いいでしょう。その代わりに食事を食べるという取り引きを許可します。しかし、もしも彼らに
彼の眼鏡がキラリと光り、ジルは気を引き
「は、はい。承知いたしました!」
「ではひとまず、ボビーの服からお願いします。ボタンが取れかけていますから」
ボビーの服を
なんという提案を、してしまったことだろう!
(お
「うう……い、いいわ、なんとかしましょう!」
「なにをなんとかするの?」
うしろからかかった声に、ジルは飛び上がった。
「……いえ、なんでもありません。おはようございます」
「おはよう。
「いえ……なにも」
意地悪そうにジルを
ため息をついたジルは、ロビーに下りる。今日も
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