第2章 前途多難な日々のはじまり_1
残り三六三日。
翌朝、
(……ライナス様が恐ろしくて、
なにしろ部屋はつながっており、
結局、彼に教えてもらった芸術書を
(どうして私なんかに興味をもつのかしら。わけがわからない……)
マイペースなライナスのことを考えると、気が重くなる。話すたびに自分のペースが、ガラガラと
(でも、ライナス様に気を
心のなかで念を押しつつ、ジルは大勢の使用人が行き
「やあ、おはよう」
昨日面識をもった、ユアンという名の使用人が声をかけてきた。ジルよりも少し年上で、
「おはようございます。今朝はカーティス様もライナス様もお屋敷にいらっしゃるので、僕の分だけお願いいたします」
ユアンは「
「ありがとうございます」
「あそこの助手は大変だからなあ。まあ、とりあえず一週間、がんばって」
いえ、一年は居座るつもりです。そう答える代わりにジルはうなずき、新聞を
ふっくらと焼き上がったマッシュルーム入りのオムレツに、サラダ。スコーンとスープの奥深い味に、ジルはうっとりと息をついた。
「おいしい……。また一日、なんとかのりきらなくては」
昨夜も一人で夕食をとったので、静かなひとときに気が
食べ終えてから、新聞に目を通す。一面を
そんな王女も暮らしている王宮にいるだなんて、いまだに信じられない。
「……
「……〝のよね〟?」
降って
「お、おはようございます。ライナス様、いつからこちらに……っ」
「数分前だ」
記事を読んでいて気づかなかった。食堂に入ったライナスは、テーブルを挟んだ前の
「あっ、それは!」
僕が飲もうとしていたものです、などと言わせる
「女の子みたいなひとりごとは、僕の空耳かな」
ニヤリとし、ジルを
「い……妹の夢を昨夜見たんです。それで、無意識のうちに口調が移ったのかと……」
苦しい言い訳に、我ながら
「……ふうん?」
意味深な彼の視線に
「食器を戻してきます」
ワゴンに食器をのせてから、
(うう……あの方はすごく苦手だわ)
──できるかぎり、
ぐったりと
芸術棟が開放される日は、ロビーの
芸術棟にカーティスが戻ると、さっそく議員の来客があった。その訪問客が帰ると、見るからに高位と思われる聖職者がやって来る。ジルはアトリエにいるライナスを呼び、応接間に通して紅茶を出した。
高名な画商や役職ある貴族らが、現れては去って行く。そんな午前をなんとかこなし終えてから、ジルは二人とともに
午後になり、彼らがアトリエにこもった直後。一人の女性がロビーに姿を見せた。
(あっ、きっとライナス様のお客様だわ!)
ジルが席を立つと、たたんだ
「ロンウィザー
すんなりと帰っていただけそうな方法は、一つしかない。
「申し訳ありませんが、ライナス様は本日こちらにいらっしゃいません」
「あなたの前もその前もそのまた前の前の……大勢の助手たちも同じことを言ったわ。どうせ彼がわたくしに照れて、会いたくないとおっしゃっているだけなのでしょ? いいわ、わたくしが会いに行きます」
くるんときびすを返した彼女は、熱情にかられたように大階段に向かって行く。
「本当です。ライナス様は、こちらにいらっしゃいません」
キッと彼女は
「どいてちょうだい。本当にいらっしゃらなければ帰ります」
(困ったわ、どう言ったらいいの? 物語に登場する
「あ……なたの貴重なお時間を、そんなことに
「──
──バシッ!
ジルの
(────!)
頰を押さえたジルは、あ然として彼女を見つめる。
「
ジルにそんな経験はない。眠れないほど
好ましく感じる相手がいても、彼らが選ぶのは常に妹だったから、感情に
だから、彼女が
(……
ジルは胸ポケットのチーフを取り出し、彼女にそっと差し出した。彼女は
「噓をついたことを、謝罪させてください。ライナス様はこちらにいらっしゃいます。けれど、女性はどなたも通すなと言われております」
「まさか……わたくしは違うはずよ!」
「夜会のときあなたのそばに、
ジルの言葉に答えたのは、
「珍しい美術品は、我が家のいたるところにございます。
「そんな……わたくしに、恋をしてくださったのではないの?」
困り果てたジルは、ただ彼女を見つめることしかできなかった。ジルの眼差しの意味を察したのか、彼女はポケットチーフに顔を
「帰りましょう、お
侍女が近づく。泣き
「大変お見苦しいところを」
「いえ。このことは他言いたしませんので、ご安心を」
うなずいた侍女が、彼女を連れて背中を向ける。
「あの! 本当に申し訳ありませんでした。あなたに苦しい思いをさせてしまったことを、ライナス様の代わりに僕が謝罪いたします」
顔を上げた彼女は、涙に
「……あなた、わたくしの平手打ちを痛がらなかったわね」
「あなたの心の痛みに比べれば、たいしたことではありません」
「そうだわ……これ……」
ジルはとっさに、物語に登場する
「差し上げます。
「なんですって? おかしな方。そんなことを言った助手は、あなただけよ」
そう言うと、彼女はやっと小さく笑った。
「……そうね。そういうことをすると、女性は気が晴れたりするものだもの。ぜひ、そうさせていただくわ」
「あなたにふさわしいお相手は、必ずいます。
びっくりした彼女は、まじまじとジルを見つめた。
「そう、かしら。あなたは本当に、そう思う?」
「はい、僕が保証いたします。もしかするともう、そばにいらっしゃるかもしれません。ただ、あなたが気づかないだけで」
彼女の
「大変失礼いたしました。帰ります」
「お気をつけて」
ジルも
どうなることかと思ったが、なんとかお帰りいただけてよかった。ホッと息をついた直後、階上に人の気配を感じて見上げた。だが、誰もいない。気のせいらしい。
ふたたび席に着いたジルは、すまし顔で扉口を見つめながら、一心に待った。
午後のティータイムの、ささやかな
残り二人の
黒い
(前の助手の方からの忠告に、助けられてばかりだわ。おかげで対策が練られるもの)
だが、いつまで待っても彼らが現れる気配はなく、訪問者も姿を見せないまま、待ち望んでいたティータイムになった。おやつを運ぶために
「私もライナスも
「えっ? けれど、お客様は?」
「このくらいの時間に来客はないし、いたとしても声をかけてくるだろう。食堂のドアを開けて、本でも読んで休むといい。初日から飛ばすと息切れするぞ」
ニッと笑った。カーティスは快活で裏表がない。本当にいい人だ。
「わかりました。ありがとうございます」
一人分のクッキーとティーセットを食堂に運んでから、ジルは自室で本を選んだ。
芸術書に
(いい機会よ。これも勉強と思って、絶対に読破するわ)
紅茶を淹れてから食堂の
やがて文体のリズムに慣れると、
だから、第一章を読み終えそうになった矢先、
「……タイトルは?」
(この方は……きっとそうよ!)
そうそうたる
〝知の
十歳にして国王に見いだされ、
貧しい人々の尊厳について真正面から
まさしく若き天才──デイランドが
彼の文学を
そんな彼の
「ああ……紳士の
そのとおりかもしれないが、なんという後ろ向きな発言だろう。
「……で? 私に〝読んでいます〟と見せつけ、私に
(なんてことなの。すっかりひねくれてしまっているわ)
暗く
「じょ……助手のジル・シルベスターと申します。昨日からこちらにおります」
「なるほど。読んだふりをして私の
レイモンドは本をテーブルに
「私の半径三メートル以内に入らないように。
あまりの
「お、お待ちください」
「いやです」
さっさと大階段を上ってしまう。その背中に、ジルは言った。
「あの! きちんと読んでおりました。たしかにはじめは難しく感じましたが、もう少しで第一章を読み終わります」
「ああ、そうですか」
冷ややかな棒読みの声音から、信じていないのはあきらかだ。どうしたらいいのだろう。そう思い
「読み終わったという
ピタリとレイモンドが足を止めた──そのとき。
──コツ……ン。
「……おい。どうしたことだ」
年齢はライナスと同じくらいだろう。ゆるやかに波打つ長めの
磨き上げられた靴、
そんなかなりの
「どうして女が、ここにいる?」
(──えっ……!)
ジルは
「ぼ……僕は男で」
す、と言い終える前に、彼の声が重なる。
「女みたいだと思って、からかっただけだ」
ジルは
「靴は五年前に流行したものか。
しまった。
身なりに対するただならぬ
〝
王宮一の洒落者として通っていた祖母の
その一方で、屋内を
王女の側近であり専任のデザイナー。そして、女性が
「まさかお前は、新しい助手か?」
「はい、昨日からこちらにおります。ジル・シルベスターと申します」
〝美こそ正義〟と言わんばかりに
彼にとって美しくないもの、
「上着もベストもズボンも古くさく、
父のお下がりを〝古くさい〟と一刀両断する
「貴族です」
「出身は? キルハだなどと、
「イーゴウ地方です」
きつく目を
「──カーティス!」
開閉音がこだまし、間を置かずにカーティスが現れた。
「……ああっ、なんだと言うのだ。静かにしてくれ、アンドリュー!」
「どうして彼を
またかと言いたげな
「そうだ」
アンドリューの言動は、ジルに田舎町でのことを思い出させた。
「アンドリュー様。あなたの高い美意識には敬意を表します」
さも
「田舎貴族ではありますが、最低限の
そんなことを告げる助手はいなかったのだろう。一瞬息をのんだアンドリューは、ジルをきつく
「……なんだ」
ジルは
「あなたのようになりたくても、なれない人たちもおります」
もって生まれたセンスや、
「すべての人たちが、身なりに注意を
アンドリューは〝美〟に厳しい。だが、その〝美〟にも多様な価値観がある。
彼の美意識が絶対的ではないと、さらに意義を申し立てたかったが、助手であるジルは言葉をのんだ。彼のその美意識に追いつかなければ、一年もここにはいられない。
「けれど、僕はここの助手です。あなたの美意識に少しでも追いつけるよう、必ず努力いたします」
……しん……とロビーが、静まり返った。と──その直後。
「よく言ったな、ジル少年」
カーティスが言う。その声に
「アンドリューにそう言った助手は、君がはじめてだ」
アンドリューの言動よりも
押し
「彼を無言で立ち去らせたのも、あなたがはじめてですよ」
そう言って
「……感想文の提出を、許可してあげてもいいでしょう。読破できれば、ですが」
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