第1章 魔術師のステンドグラス_2
カーティスは用事があるらしく、
ニヤニヤもヘラヘラもしていない彼の様子は、ジルの想像からかけ
(社交の場で女性を相手にしたら、変わるのかしら。でも、そうも思えないのよね。おかしいわ)
首を
「ここが君の部屋だ。トランクを置いたら銀王宮を案内するよ。一度で覚えてくれ」
「はい」
ジルが
「あの……ライナス様、どちらへ?」
「僕の部屋だ。この格好では出歩けないからね。ベストと上着がいる」
あっさりと答えたとたん、ドアの向こうへ消えてしまった……って?
(……え? ここは私の部屋で、その奥のドアの向こうがあの方のお部屋……なの?)
思考停止でしばらく固まっていると、今度は
「君、案内する。こっちだ」
「ま、待ってください! あの、どういうことですかっ」
「なにが?」
「あ、あなたのお部屋と僕の部屋は、つながっているのですか!?」
「そうだけど?」
「い……いままでの助手の方も、ここに?」
「ああ。なにか不都合でも?」
ジルは絶句した。
「お部屋、たくさん、ありますよね……?」
「どこも
「
「ただ、なに?」
「か、
「ないよ。ここはもともとペットの部屋だ」
「ペ……え?」
ライナスは面倒そうに髪をかき上げた。
「ここが僕たちのアトリエになったのは、三年前からだ。もとは廷臣のサロンで、愛犬と
その廷臣のサロンは
それに輪をかけて、鍵もつけずに助手を住まわせて、平気でいる彼のことが心底信じられない。
(マイペースどころじゃないわ。この方はもしかして、とっても適当なのでは……?)
ライナスは
「いったいどうしたって言うんだ。いままで君のように、文句を言う助手はいなかった。誰しも学舎で
あきらかに
「カ、カーティス様が、なんとかしてくれるのではありませんか。建築家ですし」
「べつにこのままで、不便を感じたことはない。そもそも僕は、あまりここで
そうなのかと、ジルはホッとした。それならば、気に
「わかりました。細かいことを
部屋を出たジルは、ドアを閉めた。他人に興味がないとの情報どおり、彼はジルをいぶかるでもなく、それ
お
芸術棟はあくまでも各個人のアトリエであり、四人は友人でも仲間でもない。国王たっての希望で集まっただけの
「芸術棟には専用の使用人がいない。僕らそれぞれの従者も連れていない。大勢の人間が集まれば、それなりにいざこざが生まれる。アトリエにそんな
彼らが国王に引き立てられ、ここをアトリエとした三年前から、互いの
「芸術棟にいる間は、完全に一人になって創作に
芸術棟にいる間は、一人の芸術家としての顔。屋敷へ戻ったときは、従者を
(私の仕事は、貴族としての彼らではなくて、芸術家としての彼らを支えることなんだわ)
ライナスは歩きながら続けた。
「決まった日に王宮の使用人が
「わかりました」
「食事は王宮の料理長が用意してくれる。君にはそれを、
レイモンドとは、残り二人のうちの一人。作家であり音楽家でもある人物の名だ。
「はい。でも、ほかの方は今、どちらに?」
「ピアノの音程が
アーヴィル地方は、名職人を
食事を運ぶこと以外にも、助手の仕事はある。週に二日、決まった曜日と時間に芸術棟は開放されて訪問者を招く。そのとき、誰を通し誰を帰すかの判断が任される。そのほか、用事を言い
「明日、開放される日ですね」
「たいていの人は通してかまわない。ただ、僕に会いに来た女性だけは、誰であっても通さないでくれ。僕には身に覚えのない女性ばかりだからね」
素っ気なさに輪をかけて、冷たく
(身に覚えがないだなんて、さすがにおかしいわ)
「お……つきあいをされている〝方々〟……に、お会いしないのですか?」
ジルを
「なるほど。君は新聞の記事を
ジルは
「も……申し訳ありませんが、そうです。ではあれらの記事は、真実ではないのですか」
歩みを止めることなく、ライナスは単調に答えた。
「社交の場で、ごくたまに笑むことがある。東洋の絵画が
「僕はずっと、記事を信じておりました。出過ぎたことを言って、失礼いたしました」
「かまわない。そういうわけで、女性は誰も通さないでもらいたい。わかったね」
「はい。……けれど、新聞社に
「僕にとっては
ライナスの口調は
足を
その後、厨房へ向かう。料理長や使用人たちとの
「覚えただろうね」
「はい。いまのところは」
「それはいい。こっちだ。早く終わらせたい」
こちらを思いやる様子のない言動だが、男性に親切にされたことのないジルには、むしろ
書庫へ向かう
優美な調度品、
夢のようだと
光り
四人の天使が彼女を守護するように囲み、イルタニアを
(なんて美しいの。これはきっと、
ライナスを追いかけることも忘れて、ジルは見とれた。そんなジルに気づいた壮年の紳士が、ふと
「これは、ロンウィザー
ジルを待っていたライナスは、紳士の声にとっさに
「バーリー
軽く
「
おもねるような
「ありがとうございます」
「ときに、我が
ライナスの笑みが、苦いものに変わっていく。バーリー卿の提案を、快く思っていないのはあきらかだ。
(この方はライナス様の絵画を、
ジルが内心ハラハラしているにもかまわず、バーリー卿はライナスに
「侯爵、いかがですかな。我が
「──あの! 申し訳ございません、ライナス様。お約束があったことをすっかり忘れておりました」
「……約束?」
ライナスは
「……なんですかな、君は」
「本日から芸術棟の助手となりました、ジル・シルベスターと申します。僕はすぐにうっかりしてしまうので、お約束の時間を過ぎていたことを忘れていたようです。大変申し訳ございません、バーリー卿。うっかりな助手に
ライナスは
「なんともまあ、今度はうっかりな助手とは! 大変ですな、侯爵。さて、何日もつことやら」
助手が
「なにはともあれ、約束があるということであれば、ここは
「……ええ。バーリー卿」
会釈したバーリー卿は、ジルを見て鼻で笑うと、そそくさと立ち去った。はあ、とジルは
「立ち止まってお時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。でも、本当に素晴らしい絵です」
ジルは絵を振り返りながら、ライナスに近寄った。と、彼はジルを、まるではじめて自分の視界に入れたかのように見つめていた。──なに?
「あの……?」
「君は
そう思って口を挟みましたと、ジルは心のなかで返答する。と、ライナスは一瞬だけニヤッとし、ジルに背中を向けて歩き出した。
「急ごう。またあんな
書庫に着いた瞬間、ジルの胸はときめきではちきれそうになった。
可動式のハシゴがいたるところにかけられた、
読みたかった物語が
「高価な本がこんなに!」
「資料として君に
「えっ! 本当ですか?」
「ああ、どうぞ」
感激で目がくらむ。この書庫は夢の国だ。
(ああ……! 続きを待ちわびてた『愛と裏切りの
〝壁の花〟と
冷静になるべく息を
(この機会を、
「お手数ですがライナス様。芸術入門にふさわしい指南書を、教えていただけませんか」
書棚からライナスに顔を移すと、彼は
「なん……ですか?」
「過去の助手たちとあきらかに
「それは、いままでの方々が芸術家を志していて、すでに学ぶ必要がなかったからだと思います。けれど、僕は違います」
「違う?」
「僕の知識は、芸術雑誌によるものだけです。ですから、
そう言った瞬間、ライナスは
「ずいぶん
「いえ……無知なだけです」
ジルの内面を
「……君、年は?」
「十八です」
「部屋の件をのぞけば、君はいままでずっと冷静だ。さっきもバーリー卿への礼節を保つために、自分を小さく見せたね。その機転、まるで老成した
「それは……ありがとうございます」
ライナスは苦笑した。
「
──怒る? いったいなにに?
「泣いたり怒ったりしたところで、現実が変わるわけではありませんから、感情に左右されることが苦手なのです。それに、賢者だなんて光栄です。僕は
彼の
「名前はたしか……」
「ジル・シルベスターと申します……が、まさか、覚えていただけるのですか?」
覚えたくないはずでは? 首を
「まあね。君は初日にして、僕の死に絶えていた部分を、見事に生き返らせてしまったようだから」
「えっ……死に絶えていた部分?」
「他人に対する興味だ。ずいぶん久しぶりに、他人の顔をまともに
──マズい。
「い……いえ。僕はたいした人間ではありませんので、死に絶えていたその興味は、ぜひ、ほかの方に……!」
「へえ、やっと少し慌てた。君は興味をもたれることも苦手らしい」
そのとおりだ。なぜなら男装してここにいるのだから。
ジルは
だが、ジルは
「ぼ……僕は取るに足りない人間です。興味をもっていただいたところで、
「面白いかどうか、決めるのは僕だ。君じゃない」
そうだった。彼はマイペース、なのだ。もう
──
かくして、ジルの男装の日々はこうして幕を開けた。
あと三六四日。無事に勤め上げることができるのか、ジルはこの夜冷や汗とともに、朝まで思い
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