第1章 魔術師のステンドグラス_1
デイランド王国の王都キルハより、列車と馬車で四日もかかる小さな田舎町での暮らしは、ジルにため息しかもたらさない。
自室の窓から見える小高い
ふと視線を庭へ向けると、母親が居間に
「お母様、チューリップきれいね!」
「ええ、オレンジ色のチューリップがよく育ったわ。あなたのお部屋にも飾る? お部屋が明るくなるわよ」
「あとで自分で摘むわ。ありがとう」
そう笑顔で答えてから、本を広げて窓枠に腰掛け、ジルはふたたび屋敷を遠目にした。
生まれたときから貧しかったから、きりつめる生活には慣れている。それでもこんなときには、
「お姉様、なにを見ているの」
部屋に入ってきた妹のソフィの声に、ジルは本を閉じて笑みを返した。
「べつになにも。いい天気だなあって、思っていただけ」
〝
一方、十八歳のジルはといえば、父親似の赤毛で
──常に冷静で本ばかり読んでいる〝
そう噂されるジルを、持参金がなくとも
だからこそ仲良く育ったソフィには、なに不自由なく幸せになってもらいたかった。せっかく
「
新しい
「行かないわ。お姉様だってそうでしょ?
「そんなのダメよ。ケニー・モーガンに
からかい気味にジルが笑うと、ソフィはポッと
「とにかく、あなたは行かなくちゃ。ドレスは私がなんとかするから」
「だけど……お姉様はどうするの」
肩をすくめたジルは、にっこりして言う。
「もちろん、私は行かないわ。行ったところで私と
その日の夜、ジルは亡き祖母のお下がりのなかで、もっとも上等なドレスに
持参金は無理でも、いつか結婚するソフィのために、誰よりも美しいウエディングドレスを用意してあげたい。母親にも、新しいドレスを着てもらいたい。
(家族を支えるために、やっぱり働きたいわ……)
貴族の
この国でその資格を得るには、二つの道があった。一つは女学校を卒業することだが、金銭面で
(なんとかならないかしら……)
手を止めて
「舞踏会に着ていくソフィのドレスを、作ろうと思って」
父親は哀しげに
「モーガン家での紳士の集まりは、楽しかった?」
「まあ、そこそこにはな。王都から陸軍士官の親族が来ていて、アイリーン
「
「そうだな。それから、彼が知人から聞いたという噂も教えてもらった。銀王宮の〝
〝銀王宮〟と呼ばれるキルハ王宮には、国王から特別に目をかけられた四人の芸術家が、三年前から独自のアトリエをかまえていた。この国の隅々にまで芸術を広め、また守護するべく、一年の半分近くをそこで過ごしているという。
まさしく、芸術界のエリート。デイランドが
「お父様、五年前に見たエルシャム聖堂を覚えてる? あの修復を手がけたラングレー
あれからジルは芸術熱に
──いずれ教師になるのなら、美術教師になりたい。
しかし、金銭面でその道は
手の届かない思いを消すことができず、〝
ステンドグラスと絵画の第一人者、ライナス・オーウェン=ロンウィザー侯爵は、社交界一の遊び人として、ゴシップ記事の常連なのだ。そんな彼を
「そんな人だもの。きっと
聖堂のステンドグラスはあんなに美しかったのに、才能と
(でも、そんなのは
過去の助手たちを
「……彼らの助手も、芸術家の卵だったりするのかしら。お父様、知ってる?」
なにげなくそう
「なり手がよほどいないのか、そうでもないらしい。条件はたしか……貴族の子息であること。それから頭の回転が早いこと、だったかな」
「頭の回転? ヘンな条件ね。
ジルが
「もしもお前が男だったら、素晴らしい助手になれただろう。謝礼金も必要ないそうだしな」
(──えっ! 謝礼金は必要ない?)
「……お父様、待って。彼らの助手になるための、謝礼金はいらないの?」
「そう聞いたぞ。謝礼金には、
ジルは
「助手の生活の責任を負わないということは……もしかして、お給金がもらえるのかしら」
「もちろんだ。彼らから、二週間ごとにな」
ジルは目を見張った。
(助手として従事しながら、家族を支えることができるなんて、最高だわ!)
「その……助手になるためには、どうすればいいのかしら。試験はあるの?」
「ないようだ。毎週水曜日の午後、銀王宮で面接をしているらしい」
(お給金をいただきながら、美術教師の資格も得られるのよ!)
こんな一石二鳥の機会は、二度とないだろう。ただし、問題がある。
──彼らの助手は、男性でなければならない!
ジルは
「ジル、どうした?」
「……お父様。教師になって働きたいって、私が前に話したことを覚えてる?」
「もちろんだ。だが……本当にすまなかったな、ジル。この町で
近づいてきた父親が、ジルの肩に両手をそっと置いた。
「ううん、それはいいの。だけどやっぱり私、働きたいわ。できることなら美術教師になって働いて、家族を支えたい。そのための資格がどうしても欲しいの。だから、お父様──」
ジルは父親の目をまっすぐに見返した。
「──私を〝
その言葉の意味を察した父親は、笑みを消して
「なにを言う。バカげたことを言うな」
「わかってるわ。銀王宮に行ったって、彼らの助手になれると決まってるわけじゃない。だけどこれは私にとって、二度とない機会よ。それに
王都に親族はいない。銀王宮は馬車から見たことがあるだけだ。
裁判所の刻印が入った貴族証明書には、〝シルベスター男爵家の者と証明す〟という一文が記されているだけ。ジルという名前は男性でも
「私のことは〝知人に預けた〟とでも言っておいて。それ以上誰も詮索しないでしょう。助手になれなければ、すぐに帰って来るって約束します。なれたとしても、
お前は女なのだぞと、父親は声を
「もしもなにか知られたときには、私と
父親の
「ねえ、お父様。わかって。私は働きたいの。このままなにもせずになんていられないのよ」
ジルの
「ジル、お前の気持ちは
「たとえそうであったとしても、家族を支えられるのなら、私はかまわないわ」
ジルはいままで誰からも、小さな花束すら
「……お前は誰よりも賢くて
「ありがとう。親の
「とはいえ、お前の
「ええ、そうね。でも、教師の資格を得る方法がそれしかないのなら、
ジルの必死の
「……お前の気持ちはわかる。しかし正体を隠す心配よりも、
ジルは明るく笑った。
「
ため息をついた父親は、ソフィや母親には
「お前にこんなことを言わせるなんて、ほとほと自分が情けなくなるな」
「誰のせいでもないわ……って、お
ジルの言葉に、父親は「私もだ」とささやき、やっと小さく
「ねえ、お父様。男性になりすますのって、悪いことばかりじゃないって思わない? いいことだって、ちゃんとあるわよ」
なんだい? と父親は切なげに聞く。ジルは笑顔で言った。
「切った
連日の説得が功を奏した
きらめく春の
耳もうなじもすっきりとあらわになった、短い赤毛。髪型のせいか
うっかり女性言葉が出ないよう、
ジルは父親との約束を、頭のなかで何度も
銀王宮ではなにがあろうとも、男性として生きること。
もしも正体が知られそうになったときは、教師の資格を
(これは墓場までもっていく秘密よ。絶対に隠し通すわ)
そう強く
王都の南東に位置する、広大な庭園。そのずっと奥に、〝銀王宮〟と
(前は馬車から見ただけだったけれど、やっぱりすごいわ。どうしよう……)
小さな村がすっぽりとおさまってしまうほどの
(ううん、ここで怖じ気づいてどうするの。私が自分で決めたことよ。この門をくぐらなくちゃ、なにもはじまらない)
「ようこそ。我が銀王宮へ」
四大天使を
西は大国ロドナ
銀王宮をはじめ
さらに、現国王であるアンドレアス二世が
芸術の才能があれば、国王が引き立ててくれる国。美を推進し、
その
近衛兵のうしろを歩きながら、ジルは門をくぐった。
白鳥が
近衛兵は慣れた足取りで、
(なにもかも、雪みたいに真っ白!)
鏡のように
「あそこです。ラングレー
「わかりました。ありがとうございます」
「
えっ? とジルが
トランクを手にして、
「まさか君、助手の希望者か」
ぜいぜいと
「ええ、はい。そうですが……」
「やめろ。悪いことは言わない、このまま帰ったほうがいい! ラングレー伯爵はまともだし、マイペースなロンウィザー
あ然とするジルを
「けどな、そんなのはまだ序の口だ。ほかの二人は本気で手に負えない。バクスター子爵は根暗で
言葉をきった彼は、うっと目に
「いいか、あそこの扉をくぐった
そう
「ちょっと、あの! もっと冷静に教えてください、待って!」
「引き止めるな! 自由だ、俺は自由だ───!!」
その
(……なにごとなの!?)
とにかく、個性的な四人だということだけは伝わった。いや、少なくとも一人は常識人か。
(ロンウィザー侯爵様のゴシップ記事は、やっぱり真実なんだわ。ほかの方々も気難しそう)
さて、どうしよう……なんて考えている
(山ほど説得してわざわざここまで来たのに、面接もしないで帰るなんてできないわ)
旅費だって工面してもらったのだ。とにかく、会ってみて自分の目でたしかめなければ。
ふう、と深呼吸をしたジルは、歩き進んで両開き扉の奥に入った。
純白の世界は一転、
ほのかに
けれど、いま。壁に飾られている大きな風景画、果物や花々の色どりの
(いままで私が見てきたものと、
心の底から
階上に、一人の男性が立った。年の
「一人か。上等だ」
そう言うと、大階段を下りて来た。面接をしてくれるらしい彼が、〝
美を生み出すための、〝異端〟な設計。それを実現させる職人たちは、高給を得る代わりに
職人泣かせの〝異端の
「ジル・シルベスターと申します。今日は助手の面接に……」
来ました、と言うよりも早く、つかつかとジルに近寄った伯爵は、
「女か?」
もうバレた!? ぎょっとしたジルが否定しようとした矢先、
「わっ!」
(い、いきなりなにをするの!?)
「カツラじゃないな。ちょうど
「えっ……え!?」
合否の決定が早すぎる! 伯爵はジルの
「ど、どういうわけですか? ご説明をお願いいたします!」
「お目当ての
そう言うと
「男になりすますためだけに、女性の命をあっさり切る令嬢が存在しているわけがない。そういうわけで、お前は男だと私は判断した。男であれば
「イ、イーゴウ地方です」
展開の速さについていけず、
「ずいぶん遠くから来たんだな。キルハにはいつからいるんだ?」
返されたそれを受け取りながら、ジルは今日着いたと
「なに? 着いたばかりなのか」
「はい。ここで助手を探しているという話を、父から聞いて来ました」
まるで建物の不備を
(落ち着いて、
「ぼ……僕の父は男爵ですが、あまり
ん? と言いたげに、伯爵は
「……教師だと? まるで独身を決め込んだ令嬢みたいな希望だな」
しまった、とジルは息をのむ。たしかにそうだ。
「そ……ういった資格があったほうが、いずれ父の爵位を継いだときも、なにかしらの
「そう
本当に? いぶかしむも、伯爵の表情はからりとしている。本当らしい。
「ハ……ハハ……冗談、なんですね。冗談、ですか、そうですか」
気弱に笑ってみせると、ガシッと伯爵に
「まあ、がんばれ。一年従事できたあかつきには、美術教師の資格を約束しよう。もっとも、それまでいられるかは
「は、はい。ありがとうございます……」
返事をしたものの、勢いがありあまる彼の言動に、ついていける気がしない。
常に気を引き
(しっかりしないと。しょっぱなからこれじゃ、
内心で
大階段を上りきると、四方をぐるりと囲んだ二階の
上品さと
(……なんて
目を見張るジルに、伯爵は説明した。
「お前は私たちの助手であって、従者でも使用人でもない。ここにいる間は、私たち全員を名で呼ぶこと」
「わかりました」
「ロビーを入って、大階段の奥に広間の
「はい」
「二階は私たちそれぞれのアトリエや
いよいよ新聞を
「本当にライナス様をお目当てにした女性が、男装をして面接に来ることがあるのですか?」
「ああ、あるってもんじゃない。ちなみにだが、お前には姉妹や
すれ違ったあの青年も、
「いたとしても、ライナス様にご紹介はいたしません」
伯爵は
「それがいい」
助手が辞めていくのは仕事の
(きっと興味のない女性にも、甘い言葉なんかを無自覚にささやいて、女性を
さぞかし、ニヤニヤヘラヘラしていることだろう。そんな自分の予想が当たっていたら
「ここがライナスのアトリエだ」
開け放たれているドア口に、カーティスが立った。ジルも立ち止まり、カーティスのうしろからなかをうかがう。無数のカンバスやイーゼルが
その奥、真正面の壁を目にしたのと同時に全身が
一面を
(──じゃ、ない。カンバスに
一歩でも歩けば、
本物と見まがうほどの精密さに、どこかロマンチックな夢想が加わっている。それをいとも軽々と表現して見せる、
(──すごい……!)
「……いないようだ。さては、また
室内に入ったカーティスは、奥のドアを開けた。ジルも彼のうしろに続く。
「おい、ライナス。新しい助手だ、起きてくれ」
「……ああ……」
貴族らしからぬラフなシャツ姿で、その人物はもぞりと動く。
柔らかな日射しを浴びたその姿に、ジルは言葉を忘れた。
〝幻想の
教師たちの助言を無視する、キルハ王立芸術学院の問題児。自身の内面を絵画に込めるという
彼が得意とする絵画のモチーフは、静物と風景、そして神話世界だ。淡く柔らかな色合いを何層にも重ね、光と
見た者をいやおうなしに引き込んでしまう、この世のものとは思えない幻想のステンドグラスと絵画。彼の作品をはじめて目にした国王は、〝これぞ
そんな名声の一方で、女性を
それは彼の容姿が──まさしく〝幻想〟でもあるからなのだと、ジルは
(この方は、人間じゃない。こんな方、見たことがないわ。あまりにも美しすぎる)
息をのむジルに、彼はほのかな色気を漂わせる
「コーラル・レッドか。
「……え?」
「君の髪の色。いい色だ」
ジルの
「どうした、少年。顔を真っ赤にして、女みたいな反応だぞ?」
「わっ、わた……僕は褒められたことがないので、お、
ここへ来てからずっと、しどろもどろだ。うまく男性になりすませると思っていたし、自信だってあった。それなのに現実は、うまく立ちまわれないでいる。
(もう、なんだっていうの。自分らしさの
思い直したジルは赤い顔にもかまわず堂々と、自己紹介をすることにした。
「ジル・シルベスターと申し──」
「いや、そういうのはいい」
あくび交じりで立ち上がったライナスは、ジルを
「すぐにいなくなる助手の名前を、覚えるつもりはないんだ。面倒だから」
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