第5話
それが昨晩のことだ。
改めてこうして三位局を見てみると、淑(しと)やかに見える仕草の数々が男性的な特(とく)徴(ちよう)を極力隠(かく)すためのものであることがわかる。袖(そで)口(ぐち)から控(ひか)えめにのぞく指先然(しか)り、うつむきがちに伏せられている面然りだ。
ついまじまじと見てしまいそうになるところを無(む)理(り)矢(や)理(り)視線をひき剝(は)がし、百合は整った準備に香子の傍に控える彼女の乳(ち)兄(きよう)弟(だい)でもある女房へと合図を送った。
「御(み)息(やす)所(どころ)さま。用意が整いました」
それを受けて、彼女が香子へと声をかけた。
これから藤壺での宴(うたげ)で召(め)す装(しよう)束(ぞく)を相談することになっていた。
香子自身が纏(まと)う衣(い)裳(しよう)はもちろんだが、ここで重要になるのは彼女につき従う女房たちの衣裳だ。
高貴な女性たちは通常、御(み)簾(す)や几(き)帳(ちよう)の奥にいて男性に顔を晒(さら)すことはない。宮仕えをしている女房たちは例外的とも言えるが、宴などは前庭や縁(えん)に居並ぶ男性陣(じん)に対し、女性たちは御簾越(ご)しに参加することになる。
その際、打(うち)出(いだし)や押(おし)出(いだし)といって御簾の下から衣(きぬ)の裾(すそ)や袖口をのぞかせるのだ。それによって女性美を表現するのである。
となれば、纏(まと)う衣が重要になってくるのは言うまでもない。
帝(みかど)や后(こう)妃(ひ)たちに仕える女房たちは、普(ふ)段(だん)着(ぎ)の主(あるじ)たちとは反対に常日ごろから略式の正装を纏っている。緋(ひ)色(いろ)の袴(はかま)をはき、下着である単衣(ひとえ)の上に、重(かさね)袿(うちき)、打(うち)衣(ぎぬ)、表着(うわぎ)を順に身につけ、さらに肩(かた)をわずかに脱(ぬ)ぐようにして唐(から)衣(ぎぬ)を羽織り、長く裾をひく裳(も)をつける、いわゆる十二単(ひとえ)だ。
これらの衣を襟(えり)元(もと)や裾、袖口をすこしずつずらして纏い──必然的に下になる衣ほど裾や袖(そで)が長くなる──そこからのぞく色の重なり、つまりはかさねの色目で優美さを表現し、競(きそ)いあうのだ。
それらは普(ふ)段(だん)は個々人の裁量だが、公(おおやけ)の場となると話は別だ。
女房たちがどんな衣裳を纏うか、ということが、主である香子の美的な感性を示すことに繫(つな)がるのである。
とはいえ、実際用意したのは百合たち女房だが。
「此(こ)度(たび)は、躑躅(つつじ)のかさねを中心に、」
パチン!
ご用意いたしました、と皆(みな)まで告げる前に、鋭(するど)く扇を閉じる音に遮られる。
ずらりと並べられた色とりどりの衣を一(いち)瞥(べつ)した香子は、きゅっと眉(まゆ)をよせると、閉じた扇を改めて開いて口元を覆(おお)った。見たくもないとばかりに目をそらすと、これ見よがしに溜(ため)息(いき)をつく。
「──これだから、下々の者は」
常識も知らないなんて、と耳に届いたあからさまに莫迦(ばか)にした呟(つぶや)きに、百合の肩がぴくりと動く。
あなたにだけは言われたくない! と喉(のど)元(もと)まであがってきた言葉をなんとか飲みくだす。なにはともあれ、気にいらない、という意思だけは嫌(いや)というほど伝わってくる。
そんな百合の内心を知ってか知らずか、香子は声同様莫迦にしきった目つきを扇(おうぎ)越(ご)しに送ってきた。
「あなた、今回の宴がなんの宴か知っていて?」
「もちろんでございます」
「まあぁっ」
百合が答えた直後、甲(かん)高(だか)い声をあげたのはとりまきの女(によう)房(ぼう)たちだった。
「知っていながら、これを用意したというの!?」
「御息所さまに恥(はじ)をかかせる気? 『藤(ふじ)』の宴で『躑躅』だなんて…っ」
香子の代わりに口々に喚(わめ)きたてるとりまきに、耳の奥がキンッとする。
百合はでかかった溜息をこれまたこらえて、「おそれながら」と口(こう)撃(げき)を縫(ぬ)うようにして口を開いた。
「だからこそ、こちらの色目をご用意しました」
「な…っ」
一(いつ)瞬(しゆん)絶句した女房たちの顔が、見る見る赤く染まっていく。
「なんということでしょう! お聞きになりました、今の?」
「わざと恥をかかせるつもりだったなんて、恐ろしい…っ」
「いえ、ですから──」
さきほど以上の剣(けん)幕(まく)の彼女たちに、こちらの意図を説明しようとした時、ぱしりっ、と飛んできたなにかが腕(うで)にあたった。
痛くはなかったが驚(おどろ)いて身を退(ひ)いた百合の目に、おちた扇が映る。
「ひどいわ! わたくしに藤が似合わないとでも言いたいの?」
「そのようなことは、けしてっ」
とっさに「表情からばればれ」と称(しよう)された面(おもて)を伏せる。内心どう思っているかなど、さすがにこの場でだすわけにはいかない。
「なら、つべこべ言わず──」
「──わたくしは、よいと思いますけれど」
藤のかさねを用意なさい、と続くはずだったのだろう香子の声が、静かに遮られる。
大きいわけでも、荒(あら)げているわけでもないそれは不思議と響(ひび)き、香子を含(ふく)めた居合わせただれもが声の主へと目をむけた。
「三(さん)位(み)の……今の、どういう意味かしら」
「わたくしはこれらの躑躅のかさね、よいのではないか、と」
「藤の宴なのよ!?」
「深草式部も申しましたが、だからこそです」
ふるふると怒(いか)りにか震(ふる)える香子とは対照的に、三位局はあくまで淡(たん)々(たん)としていた。
「藤壺で開かれる藤花の宴ともなれば、当然藤壺宮さまは藤のお召し物で揃(そろ)えられるでしょう。公(く)卿(ぎよう)たちも例に漏(も)れないかと」
彼女(?)の言葉に、百合は心の中で大きく頷(うなず)いた。
中(ちゆう)宮(ぐう)である藤壺宮が藤で彩(いろど)れば、当然集まった参加者たちは褒(ほ)め称(たた)えるだろう。
香子が主張をとおして藤で装束を揃えたとしても、二番手に甘んじることになるのは目に見えている。それがどんなに素(す)晴(ば)らしかったとしても、だ。後宮の主が中宮である以上、そちらをさし置いて東(とう)宮(ぐう)の女(によう)御(ご)を褒めるわけにはいかない。
となれば、香子の機(き)嫌(げん)を損(そこ)ねることになるのも自明の理だった。
だからこそ、あえて藤は譲(ゆず)り、花の色も鮮(あざ)やかな躑躅を選んだのだ。
だが、自分こそが一番と信じている香子には、通じなかったらしい。
【画像】
「いやぁね、なにをあたりまえのことを。だから、わたくしも藤でなくては」
「御息所さまは、皆さま方と同じでよろしいのですか?」
すっと香子の方を流し見た三位局に、彼女の表情がぴくりと動いた。
「同じ……?」
「その点」と独り言のように言いながら、三位局は視線と指先を近くにあった衣へと滑(すべ)らせた。
「こちらの躑躅なら、そのようなことはないか、と。それに──」
「それに、なんなの?」
意味深に言を切った三位局に、香子が焦(じ)れたように先を促(うなが)した。
「この色みには、若い華(はな)やぎがありますもの」
「……!」
あるかなしかの微笑(ほほえ)みを浮(う)かべた三位局に、百合はひくりと頰(ほお)をひきつらせそうになった。
──この人……言外に『おまえに藤のおちつきがまとえるわけないだろ』って言ってる。
若い華やぎと言ったら聞こえはいいが、ようはおちつきがないということだ。さきほど中宮を年増呼ばわりした香子の逆をいっている。
しかし、言われた当の本人は聞こえのいい言葉しか聞かなかったらしかった。三位局の言に、まんざらでもない顔つきになるのがわかった。
「そう、ね……皆が皆同じというのも芸がないものね」
いいわ、これでいきましょう。
うまく丸めこまれ、あっというまに言を翻(ひるがえ)した香子に、百合は色々な意味でほっと胸をなでおろしたのだった。
※カクヨム連載版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。続きは製品版でお楽しみください!
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