第4話
飛香舎は淑景舎と同じ理由で、藤壺と呼ばれている。
ゆえに、その
「どうして、わたくしがあんな人に呼びつけられないといけないの? 歓迎するのなら、あちらからくるべきだわ」
「御息所さま、そのような物言いはお
「あら、生まれたのがわたくしより早かったっていうだけのことでしょう?」
──今日もご機嫌麗しいわ、うちの御息所さまは。
香子たちの前に
自身の歓迎の宴とはいえ、その中心は『
中宮の
「……とはいえ、
梨壺で見た姿が
──夢だったら、よかったのに……。
今度は胸のうちに留め置けなかった
東宮と三位局に身を
「……あの」
とりあえずこれだけははっきりさせておかなければ、と口を開いた
「なんだ」
「うん?」
「男の方、なんですよね?」
「──証明してやろうか?」
いいぜ、と笑いながらあわせに手をかけた彼に、勢いよく首を左右に
「いえっ、結構です!
誤魔化すために適当なことを早口でまくしたてれば、青年は小さく鼻を鳴らした。
「
髢、つまりは付け毛ということだ。
「ああ、そうだ」
そんな二人のやりとりをにこにこと──父と似たおっとりした笑い方だが、さっきの今では
「まだ、私たちのことを
いえ、知りたくないです──と思うも、口にはできない。
知ってしまったら、いよいよ
ここまできたら、出世のためだと腹をくくるしかない。
ふう、と息をつくと、百合は
「たぶん察しはついているだろうけれど、私は
ひっかかりを覚える言葉をさらりと告げて、東宮はなんでもない風で
「それでこちらが、
告げられた名に、百合は今し方のひっかかりも忘れて、ぽかんと三位局改め左兵衛佐と呼ばれた青年を見つめた。
「……左兵衛佐さま、ですか」
「あぁ」
百合の
左兵衛佐とは、左右ふたつある
「あの、関白左大臣の
「──そうだ」
「え、
「そんなこと俺が知るか!」
信じられない思いで言葉を重ねていた百合に、龍臣はついには
東宮だけが二人のやりとりに、おかしくてたまらないという
「そう、その左兵衛佐だよ」
「これのどこが『爽やかな春風のような公達』なんですか!?」
「それに『病がち』って、そんな様子」
どこにも……と続けかけて、はたと
もしかしたら、
「……あの、どこかお悪いんですか?」
「──そう見えるかよ?」
「いえ、正直まったく」
「だろうな」
そのまま視線をはずした彼に、結局どちらなのかと
「それは
猫、と
「そう。で、
「おまえに人のことが言えた義理か、腹黒が」
これ、と隣を指さした指を、龍臣が
「お二方は、その、ずいぶんと親しい
「親しい? 単なる
「うん。かれこれ十年近いつきあいになるからね」
「あなたは私の出自を知っている?」
続いてむけられた
「先の
「そう。その高倉御息所がとんでもない母親でね……ああ、それはいいか」
今は関係がない、と東宮が
「先の帝が退位された際、兄上である今上帝には
それは都人ならだれもが知っていることだったから、はい、と
「いずれ今上帝に御子がお生まれになれば、私は
近づいてくるのも、帝の覚えも得られないような者たちか、繫がりを作って損はないと考える野心的な者たちが大半だった、と聞けば自然と
「例外的な人物の一人が、
童殿上とは、
「では、そのころから?」
「そうなるね。ちょうどそのころ、龍臣も母親を亡くして左大臣家にひきとられたばかりで、左大将は年回りも同じで
結果、今のような
「けれど、龍臣は左大臣家の問題児で」
「おいっ」
それまで別の方をむいたまま
「
「──まさか、病がち、というのは」
「ふふ、彼が出仕を嫌って
明かされた事実に、百合は信じられないと目を
龍臣は舌打ちするとばつが悪そうに
「俺はもともとそっちに近い人間だったんだ。貴族だの身分だの、余計なしがらみはうんざりなんだよ」
「……もったいない」
「──なに?」
覚えず口から
しまった、と思ったものの、今さらだと百合はずいっと身をのりだした。
「そんなこと言ってると、うちの父みたいになっちゃいますよ! うちだって元を正せば、藤原一門なんですから。それが今ではこのていたらく……家の力だろうとなんだろうと、利用できるうちに利用できるものはしておかないと」
転げおちるのは
そう力説すれば、今度は龍臣がぽかんとした顔を
「……んだ、それ。
「たしかにね」
東宮まで
笑わせることを言ったつもりのない百合は憮然とする。
そんな彼女に、東宮は「ごめんごめん」と笑いをおさめた。
「だけど、だからこそこうやって手を貸してもらえるんだ。もともと病がちということになっているから、すこしばかり長く休んだところで変に疑われることもないしね」
「手を貸して? 命じるの
「はあ……」
「今回の
「おかしな、と言いますか、ずいぶんと性急だとは思いましたけど」
小首を
「
「それはもちろん存じてます」
帝と
そこで百合は、あっ、と声をあげた。
「宮さまがお生まれになった今、東宮さまに女御さまをお
意味がない、とはさすがに言えず、言葉を
しかし、当の東宮はあっさりと
「うん、今さらなんだ。宮がお育ちになるまでしばらくは東宮は私のままかもしれないけれど、いずれお
「なのに、
そんな
「それがどうにもひっかかってね」
「──もしかして、ですけど」
二人の言うことももっともだと思いつつ、一応考えられる可能性をあげてみる。
「きたるべき時に備えて、東宮さまの後ろ
東宮の母親である高倉御息所はもとは後宮に仕える
いずれ東宮の座が御子へと移され、異母弟を
百合の意見に、ああ……と二人は
「主上は、もしかしたらその点も
そう東宮が苦笑すれば、
「あれがそんな
それならまだわがまま女をこいつに押しつけたっていう方が現実みがある、と龍臣が
「そう、ですよね」
百合としても本気で考えたわけではない。
しかし、だとしたら大納言はなにを考えて
「うん、それを
「!」
まるで思考を読んだかのように返った言葉に、百合はとっさに口元を押さえる。
──わたし、声にだしてた!?
「表情からばればれなんだよ。──ったく、こんなんで
今度は龍臣が
どうやらすべて顔にでていたらしい、と気づき、百合は
「まあまあ、君も男だとばれないようにするには、人手があった方が都合がいいのはたしかだし」
「そもそもおまえがこんな
「あの…っ、気をつけますので!」
ここで使えないと追い返されるのは
「期待しているよ。大納言家や香子姫の動向は龍臣──
「ついでに、ほかの女房なんかの桐壺内の様子にも目を光らせておけ。なにか怪しいことがあったら
「かしこまりました」
役割を指示され、改めて気をひき
政治的な
しかし、改めて考えてみると、大納言がどんな意図をもって娘の入内を推し進めたのかというのは、たしかに気にかかった。なにもないなら、それが一番だ。
とりあえず、家のため妹のためにも、不用意な真似はできないと
「では、今日のところはこれで、」
「あ、そういえば」
失礼いたします、と言いかけたところを、ふいにあがった東宮の声に
「まだ、あなたの名前を聞いていなかったね」
「──失礼いたしました。藤原実茂の
「うん、それで?」
思いださなくてもよかったのに、と思いつつ
そんなものを知る必要はないだろう、と内心苦むものの、答えないという
「……百合、と申します」
「そうか。裏切ったり下手をうったら、わかってるよな、百合?」
「これからよろしくね、百合」
「──はい」
なんとかそれだけ口にすると、百合はやっとの思いで梨壺をあとにした。
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