第4話

 桐壺御やすどころかんげいの意もこめて、ぎようしやにてふじうたげもよおしますので、ぜひに──。

 きんじようていの皇后であるふじつぼのみやことちゆうぐうしようからそんなさそいがあったのが、藤の花がまもなく満開になろうかというころのことだった。

 飛香舎は淑景舎と同じ理由で、藤壺と呼ばれている。

 ゆえに、その殿でんしやで花見の宴が開かれることも、実質後宮のあるじである中宮が東宮のにようを招くことも、なんらおかしなことではなかったが、招きがあってからこちら香子はずっとげんが悪かった。

「どうして、わたくしがあんな人に呼びつけられないといけないの? 歓迎するのなら、あちらからくるべきだわ」

「御息所さま、そのような物言いはおひかえください。相手は中宮さまですよ」

「あら、生まれたのがわたくしより早かったっていうだけのことでしょう?」

 さんみのつぼねに苦言をていされ、ふくれた香子がせせら笑うようにして言外に中宮を『年増』呼ばわりする。

 ──今日もご機嫌麗しいわ、うちの御息所さまは。

 香子たちの前にきぬを並べながら、百合は内心溜ためいきだ。

 自身の歓迎の宴とはいえ、その中心は『かがやく藤壺』と賞賛される中宮なのが気にいらないのだろうが、こんな調子で宴など大丈夫なのかと思わずにはいられない。

 中宮のしゆさいということもあり、上は三位以上のぎようから、下は五位以上をたまわりせいりよう殿でんへのしよう殿でんを許された殿てんじようびとまで集まる席だと聞く。不調法をしでかしてはじをかくのは香子本人だ。

「……とはいえ、とうぐうさまの前ではつんとすましてるけどおとなしいって話だし」

 ひそかに呟きながら、百合は香子のそばに控える三位局をそっとうかがった。

 梨壺で見た姿がうそのように、一分のすきもない美女ぶりだ。

 ──夢だったら、よかったのに……。

 今度は胸のうちに留め置けなかったたんそくを、百合はこっそりときだした。



 東宮と三位局に身をいつわる青年を前にして、百合は身を縮めるようにして二人をうかがった。

「……あの」

 とりあえずこれだけははっきりさせておかなければ、と口を開いたたん

「なんだ」

「うん?」

 二対ついの視線がさる。「なんでもないです」と言いそうになるのをぐっとこらえて、百合は青年の方を見やった。

「男の方、なんですよね?」

「──証明してやろうか?」

 いいぜ、と笑いながらあわせに手をかけた彼に、勢いよく首を左右にる。

「いえっ、結構です! かみとかどうしてるのかなとか、ちょっと不思議に思っただけなので」

 誤魔化すために適当なことを早口でまくしたてれば、青年は小さく鼻を鳴らした。

かもじに決まってるだろ」

 髢、つまりは付け毛ということだ。本来髻もとどりう髪をおろし、そこに足りない分を足して、長く見せかけているらしい。

「ああ、そうだ」

 そんな二人のやりとりをにこにこと──父と似たおっとりした笑い方だが、さっきの今ではじゆんすいがおには見えない──見ていた東宮が、思いだしたとばかりに声をあげた。

「まだ、私たちのことをしようかいしていなかったね」

 いえ、知りたくないです──と思うも、口にはできない。

 知ってしまったら、いよいよあともどりできなくなる。とはいえ、すでにひき返すにはみこみすぎている。

 ここまできたら、出世のためだと腹をくくるしかない。

 ふう、と息をつくと、百合はひるむ心をしつして、目の前の二人をえた。

「たぶん察しはついているだろうけれど、私はたかという。一応、今はまだ東宮の座にある」

 ひっかかりを覚える言葉をさらりと告げて、東宮はなんでもない風でとなりの青年を示した。

「それでこちらが、ひようえのすけふじわらのたつおみ

 告げられた名に、百合は今し方のひっかかりも忘れて、ぽかんと三位局改め左兵衛佐と呼ばれた青年を見つめた。

「……左兵衛佐さま、ですか」

「あぁ」

 百合のかくにんに、龍臣がぜんあごをひく。

 左兵衛佐とは、左右ふたつあるひよう──主にだいの外回りを守衛する役を持つ武官のうち、左兵衛府の長官に次ぐ役職を得ている者を言うが、おどろいたのはその身分にではなかった。

「あの、関白左大臣のさぶろうぎみで、だいしよう藤原朱あけさださまの異母弟だという……?」

「──そうだ」

「え、にようぼうたちの間で、さわやかな春風のような公達きんだちだと評判の? 病がちであまり姿を見かけないのが残念だって囁かれてる?」

「そんなこと俺が知るか!」

 信じられない思いで言葉を重ねていた百合に、龍臣はついにはにがむしつぶしたような顔でそっぽをむいてしまう。

 東宮だけが二人のやりとりに、おかしくてたまらないというぜいかたふるわせていた。

「そう、その左兵衛佐だよ」

「これのどこが『爽やかな春風のような公達』なんですか!?」

 だ! と時と場を忘れて言い放った百合に、東宮はこらえきれなくなったように笑いだす。

「それに『病がち』って、そんな様子」

 どこにも……と続けかけて、はたとくちびるを閉じる。

 もしかしたら、そうけんそうに見えるだけでなにかあるのかもしれない。左兵衛佐が休みがち、というのは周知のことだ。

「……あの、どこかお悪いんですか?」

「──そう見えるかよ?」

「いえ、正直まったく」

 胡座あぐらかたひじをのせる形でほおづえをついていた龍臣に、横目でちらりと視線をよこされ、決めつけはよくないと思いつつも首を横に振る。

「だろうな」

 そのまま視線をはずした彼に、結局どちらなのかとまどっていると、ようやく笑いをおさめた東宮が代わって口を開いた。

「それはわずらわしさからのがれるために彼がかぶっているねこだよ」

 猫、とり返して百合は東宮のひざの上で丸くなるくろねこへ目をおとした。

「そう。で、ほんしようがこれ」

「おまえに人のことが言えた義理か、腹黒が」

 これ、と隣を指さした指を、龍臣がたたきおとす。「ひどいな」と笑って手をさする東宮は、おこる様子もない。

 おのれの身に降りかかった出来事に気にするゆうもなかったが、この二人には主従をえた気安さがあった。

「お二方は、その、ずいぶんと親しいあいだがらのようですけど……」

「親しい? 単なるくさえんだ」

「うん。かれこれ十年近いつきあいになるからね」

 おそる恐るたずねた百合に、反対の答えが同時に返る。それに龍臣はいやそうに顔をしかめ、東宮は「ほらね」と言わんばかりの笑顔だ。

「あなたは私の出自を知っている?」

 続いてむけられたとつぜんの問いに、百合は戸惑いながらしゆこうした。

「先のみかどの二の宮さまで、ご生母はたかくらのやすどころさまですよね」

 くなった皇太后──せんていの皇后を母とする今上帝とは、年のはなれた異母兄きようだいのはずだ。

「そう。その高倉御息所がとんでもない母親でね……ああ、それはいいか」

 今は関係がない、と東宮がしようする。

「先の帝が退位された際、兄上である今上帝にはがおられなかった。ゆえに、私が東宮の座につくことになった、ほかに男宮がいなかったからね」

 それは都人ならだれもが知っていることだったから、はい、とこたえるにとどめる。一方で、この話はどこへいくのだろうか、とこんわくかくせない。

「いずれ今上帝に御子がお生まれになれば、私ははいされるだろうというのが大方の見方で、東宮とはいえ将来的に得るところのない子どもとつながりを作ろうとする人間は、実質ほとんどいなかった。やつかいな母親がうしろにいたことも原因のひとつだろう」

 近づいてくるのも、帝の覚えも得られないような者たちか、繫がりを作って損はないと考える野心的な者たちが大半だった、と聞けば自然とまゆがよる。

「例外的な人物の一人が、とうのちゆうじよう──今の左大将だった。まあ、彼は兄上と従兄弟いとこ同士ということもあって親しくしていたから、私のことを気にかけてくれるようたのまれていたんだと思うけれどね。彼がわらわ殿てんじようで連れてきたのが、龍臣だよ」

 童殿上とは、ぎよう見習いとして貴族のていが特別にしよう殿でんを許され、出仕することだ。

「では、そのころから?」

「そうなるね。ちょうどそのころ、龍臣も母親を亡くして左大臣家にひきとられたばかりで、左大将は年回りも同じできようぐうの似た私たちなら仲良くなるだろうと思ったらしい」

 結果、今のようなえんりよのない関係ができあがったのだという。

「けれど、龍臣は左大臣家の問題児で」

「おいっ」

 それまで別の方をむいたままおもしろくもなさそうに聞いていた龍臣が、余計なことを言うなとばかりに口をはさむ。が、とうぐうはおかまいなしだ。

たびたび左大臣邸ていけだしては、供もつけずに市中をうろついて。童殿上までしておいて十五とぎようの子息にしては元服がおそかったのも、そのほんぽうさを左大臣がどうにか正そうとしたからだとか」

「──まさか、病がち、というのは」

「ふふ、彼が出仕を嫌ってげ回るための方便だよ」

 明かされた事実に、百合は信じられないと目をみはった。

 龍臣は舌打ちするとばつが悪そうに身動みじろいだ。

「俺はもともとそっちに近い人間だったんだ。貴族だの身分だの、余計なしがらみはうんざりなんだよ」

「……もったいない」

「──なに?」

 覚えず口からこぼれでていた本音に、龍臣がげんそうにこちらを見る。

 しまった、と思ったものの、今さらだと百合はずいっと身をのりだした。

「そんなこと言ってると、うちの父みたいになっちゃいますよ! うちだって元を正せば、藤原一門なんですから。それが今ではこのていたらく……家の力だろうとなんだろうと、利用できるうちに利用できるものはしておかないと」

 転げおちるのはいつしゆん、そうなってからこうかいしても遅いんです!

 そう力説すれば、今度は龍臣がぽかんとした顔をさらす。ついで震えた唇に、怒らせたか、と身構えた百合の前で、彼はくくっとこらえきれなかったようにのどを鳴らした。

「……んだ、それ。つう、家のためにとか、貴族としての務めがとか言うとこだろうが、そこは」

「たしかにね」

 東宮までいつしよになって肩を震わせる。

 笑わせることを言ったつもりのない百合は憮然とする。

 そんな彼女に、東宮は「ごめんごめん」と笑いをおさめた。

「だけど、だからこそこうやって手を貸してもらえるんだ。もともと病がちということになっているから、すこしばかり長く休んだところで変に疑われることもないしね」

「手を貸して? 命じるのちがいだろうが」

「はあ……」

 しやくぜんとしないものの、ようやく繫がった話に、百合はあごをひいて居住まいを正した。

「今回のにようじゆだい、おかしな話だとは思わなかった?」

「おかしな、と言いますか、ずいぶんと性急だとは思いましたけど」

 小首をかしげた百合に、今度は龍臣が口を開いた。

主上おかみに待望の男御子が生まれたのは知っているよね?」

「それはもちろん存じてます」

 帝とちゆうぐうの間にはひめみやは二人おられたが、長く男宮にはめぐまれなかった。そこへ一昨年の冬、待ちわびた宮さまがお生まれになったのだ。

 そこで百合は、あっ、と声をあげた。

「宮さまがお生まれになった今、東宮さまに女御さまをおむかえするのは、その……」

 意味がない、とはさすがに言えず、言葉をにごす。

 しかし、当の東宮はあっさりとうなずいた。

「うん、今さらなんだ。宮がお育ちになるまでしばらくは東宮は私のままかもしれないけれど、いずれおゆずりすることになるのは言うまでもないことだからね」

「なのに、だいごんは半ばごういんに入内をし進めたらしい。今までそんな話、言葉のはしにものぼってなかったにもかかわらず、な」

 そんなちやがとおったのも、それこそ東宮の立場ゆえだろう。いずれ今の地位を譲ることになると思われているからこそ、言い方は悪いが『たいしたことではない』と判断されたにちがいない。

「それがどうにもひっかかってね」

「──もしかして、ですけど」

 二人の言うことももっともだと思いつつ、一応考えられる可能性をあげてみる。

「きたるべき時に備えて、東宮さまの後ろだてとなるおつもり、とか」

 東宮の母親である高倉御息所はもとは後宮に仕えるにようぼうで、その美しさが先帝の目に留まり、きさきとなった人だ。本人の後宮での地位も女御の下のこうと高くはなく、実家の力も強くなかったと聞く。

 いずれ東宮の座が御子へと移され、異母弟をしんせきへと降下することになったとしても、きんじようていならばれいぐうするような真似まねはなさらないだろうが、強い後ろ盾があるのなら越したことはない。

 百合の意見に、ああ……と二人はたがいの目をわした。

「主上は、もしかしたらその点もまえて大納言の意見をいれたのかもしれないけれど、ね」

 そう東宮が苦笑すれば、

「あれがそんなしゆしような玉かよ。親が持ってた右大臣の座を、中宮の父親である今の右大臣にかっさらわれたんだ。相当燻くすぶってるはずだ」

 それならまだわがまま女をこいつに押しつけたっていう方が現実みがある、と龍臣がき捨てる。

「そう、ですよね」

 百合としても本気で考えたわけではない。

 しかし、だとしたら大納言はなにを考えてむすめを入内させたのだろう?

「うん、それをさぐるために龍臣を桐壺へ送りこんだんだ。後宮内は女性の身の方があやしまれずに動けるし、そば近くにいればだれとどんなやりとりをしているかもわかるだろう?」

「!」

 まるで思考を読んだかのように返った言葉に、百合はとっさに口元を押さえる。

 ──わたし、声にだしてた!?

「表情からばればれなんだよ。──ったく、こんなんでだいじようか?」

 今度は龍臣があきれた顔つきになる。

 どうやらすべて顔にでていたらしい、と気づき、百合はおうぎおもてを隠したいしようどうられる。だがそれも今さらすぎた。

「まあまあ、君も男だとばれないようにするには、人手があった方が都合がいいのはたしかだし」

「そもそもおまえがこんなやつかいなこと命じなかったら、すんだ話だろうが」

「あの…っ、気をつけますので!」

 ここで使えないと追い返されるのはけなければ、と勢いこんで告げた百合に、おうしゆうしていた龍臣は舌打ちし、東宮はいい笑顔をむけた。

「期待しているよ。大納言家や香子姫の動向は龍臣──さんみのつぼねが探るから、君は彼女の手助けを」

「ついでに、ほかの女房なんかの桐壺内の様子にも目を光らせておけ。なにか怪しいことがあったらしらせろ」

「かしこまりました」

 役割を指示され、改めて気をひきめる。

 政治的ないんぼうなどなんだのは、そんなものとはかけはなれた場所にいたため、正直ぴんとこない。

 しかし、改めて考えてみると、大納言がどんな意図をもって娘の入内を推し進めたのかというのは、たしかに気にかかった。なにもないなら、それが一番だ。

 とりあえず、家のため妹のためにも、不用意な真似はできないときもめいじる。

「では、今日のところはこれで、」

「あ、そういえば」

 失礼いたします、と言いかけたところを、ふいにあがった東宮の声にさえぎられる。

「まだ、あなたの名前を聞いていなかったね」

「──失礼いたしました。藤原実茂のむすめ、深草式部と申します」

「うん、それで?」

 思いださなくてもよかったのに、と思いつつこうべを垂れた百合に、東宮はさらに言葉を重ねた。言外に女房名ではなく本名を要求されているのだと気づいて、せた面の下でほおがひきつる。

 そんなものを知る必要はないだろう、と内心苦むものの、答えないというせんたくはやはりどこを探してもなかった。

「……百合、と申します」

 しぶしぶ名乗って顔をあげた百合の目の前には、れるようなふたつの笑顔があった。

「そうか。裏切ったり下手をうったら、わかってるよな、百合?」

「これからよろしくね、百合」

 ねこのことなどほうっておけばよかった……と返す返すも思わずにはいられない。

「──はい」

 なんとかそれだけ口にすると、百合はやっとの思いで梨壺をあとにした。

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