第3話

 東宮より夜のおしがなければ、よいはのどかなものだ。

 昼はがさげられていた簀子すのこえんと廂のあいだにはしとみがおろされ、とうだいあかりがらぎながら室内を照らす。

 香子はすでにどこであるちようだいの奥へとひきこもり、残された女房たちも碁を打ったり、ひそひそ話に興じたりと、それぞれが思い思いにすごしていた。

 夜もけ、一人、二人と自分にあたえられた部屋──局へとひきあげていく中、ほのかな灯りをたよりに針を動かしていた百合は、糸を止めるとほっと息をついた。

「よし、こんなものかな」

 いあがったきぬを目の前に広げ、できばえに満足げにうなずく。ていねいにたたみながら、百合は軽く首を回した。

「つい夢中になっちゃったけど、さすがに手元が暗いとつかれる」

 油のことを気にしなくていいことに、あとすこしあとすこしと思ううちにすっかりおそくなってしまった。

「家とはちがうんだから、気をつけなきゃ」

 油の心配はいらなくなったが、ひとのなかった実家とは違い、ここでは他人をづかう必要がある。上の方の女房たちとは違い、つぼねといってもちようびようで仕切られているだけの空間だから、気配や音はつつけと言ってもいい。あまり遅くなってはすでに休んでいる人にもめいわくになる。

 後始末をして急いでひきあげようとした百合は、しかし、

「──きゃぁぁッ」

 御帳台の方から聞こえた悲鳴に、はじかれたように首をめぐらせた。

「御息所さま?」

「だれか!」

 またも聞こえた悲鳴に近いそれに、百合は片手ではかまをからげると、もう片方の手に燈台を持ち、御帳台の方へと走りよった。

 自分以外は局にひきあげてしまったあとなのか、はたまた悲鳴にただならぬ気配を感じてじけづいたのか、ほかの女房の姿はない。

 百合は御帳台のとばりに手をかけ、はたと動きを止めた。さすがに断りもなくみいるわけにはいかない。

「御息所さま、深草式部です。いかがなされました」

「ひっ、あ、あやかしが…っ」

 うわった声で返ったそれに、百合はつとまゆをよせた。

「あやかし?──失礼いたします」

 さっと帳をめくり、燈台の灯りで御帳台の中を照らす。そこには頭から夜具をひきかぶってうずくまる香子の姿があった。

「ほら、そこッ」

 きだされた手が指し示す方へ目を走らせる。と、きらり、とくらやみになにかが光る。

 いつしゆん息を吞んだ百合は、じっと目をらし──ふっと息をきだした。

「──だいじようねこです」

「なんですって!?」

 きようがすぎてかるように問い返され、百合はしゆんじゆんしたあと、「ご無礼を」と燈台を置くと御帳台へ足を踏みいれた。そのまま夜具のかたまりをよぎり、やみけこむようにして帳から顔をのぞかせているあやかし改め、猫のもとへと歩みよる。

 人慣れしているのか、近づいてもげない。手をばしてきあげれば、ていこうすることなくすんなりと腕におさまった。

「どこからかまぎれこんだようですね」

 うでに猫を抱いたままり返った百合が声をかけると、香子はこわごわといったていで夜具から顔をのぞかせる。

「……」

 ひとつまたたいたあと、ゆっくりそうぼうを見開いたかと思うと、香子はばっと夜具をはねのけて身を起こした。

「……きて」

「御息所さま?」

 わなわなとくちびるふるわせてつむがれた声はかすれていて、よく聞きとれない。まどいがちに呼びかけると、キッといかりに染まったひとみにらみつけられる。

「どこかに捨ててきてって言ったのよ! けがらわしい…っ」

「ですが、」

「なによ、逆らうつもり!?」

 はんばくしかけたところを、高飛車にさえぎられる。

 もはや聞く耳を持たない香子に、百合はひそやかにたんそくして、おもてせた。

「──かしこまりました」

 失礼いたします、と猫を抱いたまま再度香子の横をとおりすぎれば、彼女はけるように身を退いた。急ぎ御帳台からでたところで、

ひめさま!──あ」

 いれわるようにして一人のにようぼうへと走りこんでくる。

 自分の姿にか、抱いた猫にかおどろいたように動きを止めた彼女に、百合は軽く頭をさげるとそそくさとぜんを辞した。

はる、なにをしていたの!? わたくしが呼んだのにけつけもしないなんて! 莫迦ばかにしてるの? ほかの者もよ、お父さまたちに言いつけるわよっ」

「申しわけありません…っ」

 背後から聞こえてくるやりとりにかたすくめながら、百合は妻戸のじようを開けるとそっと外へすべりでた。静かに戸を閉め直すと、はあ、とつめていた息を吐きだす。

 戸をへだててなおかすかに聞こえてくる声にかたしに振り返ったあと、腕の中の存在へと視線をおとした。

「捨ててこい、って言われてもね」

 あきらかに人慣れした様子といい、手入れされたつややかな毛並みといい、なにより首に巻かれたあやひもがこの猫がい猫であることを示していた。

「それにこの子って、もしかしなくても、とうぐうさまが飼われてるっていう……」

 暴れるでもなく腕に顔をなすりつけているくろねここんわく気味に見下ろす。

 きんじようていからおくられた猫を東宮がかわいがっている、という話は耳にしたことがあった。東宮の御前へあがるのに必要な五位の位までさずけられているという話だから、じやけんあつかうわけにもいかない。捨てるなどもってのほかだ。

 とはいえ、ここで放して再びもぐりこまれるのも困る。

「──どなたかまだ起きているといいけど」

 ここは梨壺付の女房にひきとってもらうほかはないか、と再び息をついたあと、百合は梨壺へと重い足をむけた。

 東宮のお召しの際にはべるような身ではないから、後宮にあがってからこのかた梨壺へ足を踏みいれたことはなかった。

 どうが速まるのを感じつつ、桐壺と梨壺をつなわたろうわたっていく。その先にあるのは、昭陽北舎と呼ばれる建物だ。

 東宮に仕えるによかんたちの住まいにあてられている北舎は、この時間当然のようにしとみがすべておろされ、妻戸もざされていた。しん、と静まりかえったあたりは、起きている者の気配もない。

「だよね……」

 百合は肩をおとしながら、いちの望みにかけて、建物にそって巡らされた簀子縁を歩いていく。ぎっ……と踏みめるたびにきしゆかいたに、自然足どりはしんちようなものになった。

 各殿でんしやおおむね似たような構造をしている。建物の中央に母屋があり、四方を囲む形でひさしがある。さらにその外側に簀子縁がかれていた。廂の間と簀子縁の間はこうや蔀で仕切られ、建物のすみには妻戸と呼ばれるとびらがついている。

 百合は北舎と梨壺を繫ぐ渡廊をさらに渡って、おそる恐る東宮の殿てんへ足を踏みいれたところで、奥にある妻戸からうすあかりがれているのを目に留めた。

 ──あ、よかった……起きてる人がいるみたい。

 こうなったらいっそここで猫をおろしてもどろうかと思っていただけに、ほっと胸をなでおろす。

 さっさとこの子をたくして戻ろう、と百合は足を速めて妻戸へと近づいていった。

 しかし、いきなり開けるような真似まねはせず、扉の横で慎重にひざを折ると、

「もうし──」

 細く開いた妻戸越しに、室内へと声をかけようとした──が、

「ったく、やつかいなことを押しつけてくれたな、おまえも」

 漏れ聞こえてきたそれに、寸前で言葉をみこむ。

 ──男の人……? え、女房のだれかのところに、公達きんだちしのんできてるの? だけど、今の声って……。

 ひびきは違うが、耳あたりのいい声はどこかで聞き覚えがある気がした。

「そう? ずいぶんとうまくやっているみたいじゃない。うわさは耳に届いているよ」

 今度はちがう声がする。笑いをふくんだそれもまた男性のものだ。となると、あいきというわけではないらしい。

 警護にあたっている武官たちだろうか、と頭をよぎるが、庭先ならまだしもこんな場所で? と違う疑問がいてくる。

 ──なんにしても、声をかけられるふんじゃないよね、これ。

 それこそ『厄介ごと』のにおいがする。

 ここはこの子(猫)を置いて早々に退散しよう、と抱いていた猫をそっとおろそうとした百合は、次に聞こえた科白せりふにぴくりと動きを止めた。

「女房のかがみとも言われる君がそんな格好をしているところ、人に見られたらどうなるだろうね」

ひとばらいはしてあるんだろ。ここでまであんな格好してられるかよ、うつとうしい」

「……え?」

 耳に届いた会話に知らずこぼれた声に、百合はあわてて唇を閉じた。息をひそめて、じっと耳をすます。

 どうやら気づかれてはいないようだ、と扉のむこうに動きがないことをたしかめ、こわばった身体からだからわずかに力をく。一方で、代わりのように心の臓がさわぎだすのを感じた。

 ──今のって、どういう意味? 女房の鑑って、まさか……。

 いや、とかんだ人物をそくに否定する。彼女がこんなところにいるはずがないし、そもそもこんな乱雑なしゃべり方をするような方ではない。

 けれど、否定するそばから、でも……という思いが頭をもたげる。

 ──あの方は出仕に際して東宮さま直々のおこえかりがあったとか聞くし。それにこの声。

 似てる、と無意識のうちにく腕に力をこめていたのか、これまでおとなしかったねこいやがるように身をよじった。

 あ、と思った時には百合の腕からのがれ、とん、と音もなく簀子すのこの上に飛びおりていた。

 なぁ──とあがった甘えたような鳴き声に、どきっと鼓動がひときわ高くねる。

 ──まずい!

 せいじやくにおちたそれは思いの外大きく響き、案の定「まる?」と妻戸のむこうから名らしきものを呼ぶ声が聞こえた。

 このままでは見つかる、とあせりを浮かべた百合をしりに、猫は尻尾しつぽらすと妻戸のすきからするりと中へはいっていった。

「──ああ、いないと思っていたら、散歩にでもいっていたのかい?」

 猫にむかってかけられたのだろう言葉に、どっとだつりよくする。

 よかった……ときだしそうになったためいきをこらえ、百合は今度こそ退散しようと力の抜けた両足にそろりと力をこめた。

 猫を『小丸』と呼び、やさしげに語りかけていた声の主については、考えない。

 ──わたしはなにも聞かなかった。

 自らに言い聞かせながら立ちあがろうとしたその足元から、ギシ…ッ、と低い軋みがあがる。

「……っ」

「! だれだ!?」

 はっとしたしゆんかんするどすいがあがった。

 ──なんで今気づいて、きた時には気づかないのよ…っ

 焦りのあまりけんとうちがいな考えが浮かぶ。すぐに立ち去らなければ、とわかっているのに、こうちよくした身体は思うように動かない。

 思考も手足も働かず、しようそうばかりがつのる中、あらい足音とともに勢いよく妻戸が開かれた。

 漏れたうすかりに、開け放った人物の横顔が浮かびあがる。

「おまえは──」

「ま、さか……」

 たがいに目を見開いて、見つめあう。

 目の前の人物はからぎぬ表着うわぎうちぎぬといった女房装しようぞくぎ、あまつさえ、かさねうちきも身につけずこうちき一枚を単衣ひとえの上に羽織っただけ、というぞんざいすぎる格好だ。さらに、さすがにはかまははいているものの、単衣のあわせはくつろげられている。

 だんのその人からはとうてい信じられない。が、この顔をちがうはずがない。

「──さんみのつぼね、さま」

 なおも信じられない思いでぎようぜんと彼女の姿を見上げていた百合は、ふと吸いよせられるようにむなもとへ目を留めた。

 くつろげられたあわせは、今にも胸のあわいがのぞきそうなほどなのに──ない。

 本来ならそこにある、ふくらみがないのだ。

「ははっ、まさか。男じゃ──んぅっ」

 あるまいし、と続けようとしたところで、いきなり焦った形相を浮かべたその人に口をふさがれる。

 とつぜんのことに目を白黒させる百合に、その人はちっと舌打ちすると、ばやく周囲を見回し、

「こい」

 を言わさぬ声と力で、妻戸の中へと百合の身体をひきずりこむ。片手で口を塞いだまま、こしに回した反対のうで一本で、だ。到底女の力ではあり得ない。

 おまけに、かかえこまれる形で背中に感じるぬくもりは、ひどく固い。

 ──どういうこと……!?

 あり得ない出来事の数々に、百合はそつとう寸前だった。むしろ、気を失うことができたらどんなに楽だっただろう。

「──いいか、騒ぐなよ」

 騒いだらどうなるかわかっているだろうな、とうしろからのぞきこむ形で目顔でおどされ、こくこく、と首を縦にすることしかできない。

 けいかいするようにやけにゆっくりとくちびるを塞いでいた手がはなされる。普段はすそから指先がのぞく程度だったからわからなかったが、大きなてのひらやわらかな女性のものとは違うことに、改めて気づかされる。

 今までどうして気づかなかったのかと思うほど、その人はどこまでも『男の人』だった。

「……」

 どくどくと痛いほどにどうが脈打っているのが、わかる。

 これから自分はどうなるのかとふるえる唇をひき結んだ百合の顔へと、すっとかげがさした。そろりと目をあげれば、猫を抱いた一人の青年が自分を見下ろしていた。

 こくり、とのどが鳴る。

 一度、遠くしに見たことがあるだけだが、まず間違いないだろう。

 ──この方が、とうぐうたかしんのうさま。

「彼女は?」

 品のある優しい顔立ちに微笑ほほえみまで浮かべながら発された言葉に、ぞわぞわと背中へ言い知れない感覚が走った。表情同様柔らかなこわなのに、その奥に鋭いやいばかくし持っているような、見た目どおりではないなにかがある。

「桐壺のところのにようぼうだ。何度か見たことがある」


 こちらは隠さない冷ややかさが、耳元をかすめる。どうしてこの声を耳あたりがいいなどと思ったのかと、百合は小さくかたを震わせた。

「たしか、ぶのたい実茂のむすめ、だったか」

「ああ、彼か。通常はおおうじすがわらうじがつく役職だけど、その博識から例外的に任命された人だから、よく覚えてる」

 だったらだいじようかな、と独り言めいた東宮のつぶやきに、どくり、と大きく鼓動が跳ねた。

 今の『大丈夫』は一体どういう『大丈夫』だろうか。

 放置しておいても問題ない、という『大丈夫』なのか、それとも──

「里へさがらせても、うるさく言ってくることはないだろうし。発言力のある人じゃないから、もし三位局は実は男だって言いふらされたとしても、だれも相手にしないだろう」

「まあ、こいつの口止めの必要はあるだろうがな」

「そういうわけだから──」

 百合越しにおんな会話をわすと、東宮はこちらにむかってにっこりとみを深めた。

「残念だけど、あなたには里に帰ってもらうことになる」

「! そんなっ」

 宣言されたそれに、百合は背後にいる人物のことも忘れて身をのりだしていた。

「そんなの、困ります!」

「おい」

 しかし、すぐに肩をつかまれてひきもどされる。それでも必死に言い募る。

「ご存じのとおり、父は発言力どころか、出世欲よくもないんです。自然相手に楽をかなでて歌をむばかりで、我が家はかたむく一方。これでは妹にけつこん相手を見つけることもままなりません。わたしがなんとかしないと…っ」

 ここで出世どころか出仕の道もざされたら、ますます家の立て直しが遠のくどころか、絶望的だ。

 出仕してすぐ里に帰されるなど、なにかあったと告げているも同じで、そんな姉のいる妹のもとにまともな相手がかよってきてくれるはずがない。

 百合はすがりつくように肩を摑む手をにぎると、だれともわからぬ男にむき直って頭をさげた。

「お願いします! あなたのことをだまっていろというのなら、けっして口外したりしませんから」

「──なるほど、追いだされるのは困る、と」

「はいっ」

「なら、なんでもこっちの言うことを聞くってわけだ」

「はい!……って、え?」

 勢いよくこたえたあと、はたと我に返る。

 あわてて顔をあげれば、男はにっと唇をりあげてたちのよくない笑みをかべていた。その姿には『女房のかがみ』と呼ばれるおもかげなど、どこにもない。

「そうか……そういう手もあるね」

 うしろから聞こえた声に、百合はぎこちなく背後へ首をめぐらせた。──と、かがみこむようにしてのぞきこんできた東宮の顔に、ぎょっと息をむ。

 こちらもまたたのしげに微笑んでいる。そこにも、うわさに聞いた『おだやかでやさしい』東宮の姿などなかった。

「ちょうどいい。色々誤すにも、使える手がほしかったところだ」

「そうだね、君のほかに動くことのできる人手があっても損はない」

「あ、の……」

 近すぎる男たちの顔と不穏さに、前もうしろも見られない。

 父親以外、これほど身近に感じたことのない異性の存在に、ともすると顔が熱を持ちそうになる。が、身にせまった穏やかならざる気配を感じれば、手足から血の気がひいていく。

 赤くなったり青くなったりといそがしい百合の手を、握ったままだった男の手が逆に摑んできた。

 びくっと肩をらして顔をあげると、あいも変わらぬ男のいい笑顔がある。

「ってわけだ。俺たちに協力するよな?」

「ことがすんだあかつきには、あなたが望むなら梨壺付のによかんにとりたててもいいよ。出世、したいんでしょう?」

 耳元でささやかれ、反射的に首をすくめる。

 前からの脅しと、うしろからのゆうわくに、

「……はい、喜んで」

 そう答えるよりほか、百合に残された道はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る