第2話

 へいあんの都の北、その中央に位置する皇居並びに諸官庁が所在する区域を大内裏という。

 その中心であり、帝が住まわれる区画を、内裏ともきんともしようする。

 そして、内裏のさらに奥向き──帝の常のしよであるせいりよう殿でんの後方にある、皇后をはじめとするきさきやそのにようぼうたちが住まう十二の殿舎をまとめて後宮と呼ぶ。

 その東の一画、げいしやが百合の新たな住まいだった。

「──で、庭にきりが植わってるから、別名桐きりつぼか」

 あれって本当だったんだ、と話に聞いたことしかなかった桐にあわむらさきの花がきはじめているのに気がつき、百合は足を止めた。

 とうぐうの女御となられただいごん好文のむすめたかとともに、ここ桐壺の御殿へあがったのが二月きさらぎの終わり。

 それからさほどの時が流れたわけではないのに、慣れない日々の慌ただしさに、月日の感覚があいまいになっている。ほころびはじめた桐の花に、もうそんな時季か、と思う一方、まだそれだけしか過ぎていないのか、とも思う。

ふかくさのしき?」

 どうしたのかとかかった、ようやく耳慣れてきた呼び名に、「今いくわ」と返して、百合は手にした布地を抱え直して、どうりようのあとを追った。

 東宮の女御である香子が、あたえられた御殿から『きりつぼのやすどころ』と呼ばれるようになったのと時を同じくして、百合もまた『深草式部』という女房名で呼ばれるようになっていた。

 まんようしゆうに『道のくさふか百合のはなみに』という歌があることから、草深ではが悪い、と深草と呼ばれるようになったのだが──

 ──これって、絶対うちをからかう意味もはいってるよね。

 草木花は自然にあるがままがいい。

 そう言って父は庭に手をいれようとはせず、生えるがままに放置している。おかげで夏などはどこの野原だと思うような有様だ。

 まさに、深い草の中の百合、というわけだ。ちなみに、式部は父親がしきぶのたいたまわっているためにつけられた。

「まあ、そのとおりなんだけど」

 ここのように手入れのいき届いた庭にかんたんする反面、さびしいとも思ってしまう自分は、やはりあの父のむすめだということなのだろう。

「だからこそ、感性をこうしてかすことができてるわけだし」

 そう、思ったとおりの色に染めあがった布へ目をおとして、百合は我知らず口元を綻ばせた。

 命あふれるみずみずしいもえに、空を映してかがやく水の色。

 こうして、自然を写しとったかのような色合いに染まった布やうすよう(紙)を見ると、心がはずむ。意図した色とはちがってしまっても、くやしくはあるが、それはそれでおもしろい。

 実際に染めあがるまで、どんな色に仕上がるかわからない。たとえ同じせんりよう、同じ配合であっても、さまざまな要因でみような差が生まれる。そこが染めの難しいところであり、わくわくするところでもあった。

「いつもとは勝手が違うから、うまくいくか不安だったけど」

 よかった、とつぶやいて布地へ指をすべらせた時、

「きゃあ!」

 の奥からひびいたかんだかい声に、百合はびくっとかたらがせた。なにごとか、と思う前にかたいものがばらまかれるような音が続く。

「いやだ、ごめんなさい。わざとじゃないのよ、ね?」

 びているにもかかわらず、くすくすとしのび笑う気配のにじむ声が耳に届き、自然とまゆがよる。

 百合は声のした方を気にかけながら、そっと御簾をまくってひさしの間へと足をみいれた。

 そこにひかえた同僚の女房たちもまた、息をひそめるようにしてさらに奥の御簾──の様子をうかがっている。

「……御息所さま、また?」

 近くにいた女房の一人にささやくように問えば、そう、とあいづちが返った。

なぐさみにさんみのつぼねさまを相手にをしておられたんだけど……」

 どうやら負けの気配がのうこうになり、かんしやくを起こしたということらしい。

 にごされたことじりを読みとって、百合はこっそりとためいきをついた。

 ──あの方にも困ったものだわ。

 よくあれでじゆだいさせようと思ったものだ、と仕える身ながらあきれを禁じ得ない。

 桐壺御息所──東宮の女御となった香子は、大納言家のゆいいつひめとしてちようよ花よと育てられたらしく、わがままというか、少々困った性質の持ち主だった。

 ちやほやされていないと気がすまず、気にいらないことや思うようにならないことがあると、すぐにねたり泣いたりする。だけならまだしも、家から連れてきたお気にいりの女房たちを使って、口々に文句をつけさせる。

 与えられた殿舎が桐壺という、清涼殿から一番遠い、後宮のはしともいうべき位置なのが気に食わないらしく、せっかくの庭にも「地味すぎる」「自分には似合わない」などとケチをつけてばかりだ。

 ──ここ桐壺がなしつぼに一番近いんだから、はいりよをいただいているのはだれにでもわかるのに。

 東宮の殿てんである梨壺──正式なめいしようしようようしや──は桐壺とはわたろうはさんだ南にあり、目と鼻の先だ。

 これで自分がないがしろにされていると文句をつける意味がわからない。

れいけい殿でん殿でんだったらなつとくしたのかしら」

 呆れ混じりに独りごちていると、ついっと御簾が持ちあがり、母屋からひとかげがでてくる。その姿に百合は、あ、と目を軽く見開いた。

 三位局だ。

 百合とは反対の切れ長のそうぼうに、すっととおった鼻筋とうすくちびるは、まるで当代一の絵師が理想を筆でえがいたかのようだ。かみは黒々とつややかに流れ、背が高いことだけが欠点と言えば欠点だろう。

 しかし、それもふくめて彼女にはせいれんな美しさがあった。

 ばんかかえてうつむくようにし目がちにでてきた三位局は、一人立っている百合に気づいたのかふと目をあげた。

 ついついれていた百合は、ぱちりとあった視線に、かあっと赤くなる。

 しつけに見過ぎてしまった、とあわてるこちらをよそに、彼女は小さく微笑ほほえんだ。だまっているとどこか人をよせつけないりんとしたふんが、わずかにゆるむ。

 それらにどぎまぎしている間にこちらへと歩みよってきた三位局のまなざしが、めるように抱えていた布地へとおちた。

ころもえのたくですか?」

【画像】

「は、はいっ」

 すこし低い、けれど艶のある耳あたりのいい声が耳をなで、予想外の事態にこたえる声が裏返る。

「美しい色……これは、あなたが?」

「そうです」

 おちつけ、と自らに言い聞かせながら、百合はぎこちなくあごをひいた。

 当面のしようは入内に際して大納言側が用意していたが、夏のしようぞくはそちらで、と生絹すずしなどのや染料を追ってよこした。それらをほかの女房たちとともに四月うづき一日の衣更えにまにあうよう仕立てている最中だった。

 そんなところからもこの入内が慌ただしいものだったことがけて見え、なにを急ぐ必要があったのかと首をかしげたものだ。

うでが良いのね」

「いえ、そんな」

 それを買われた身ではあるが、面とむかってめられるとやはりおもゆい。

「これくらいでしかお役にたてませんから。三位局さまは……」

 大変ですね、と口からでかかった言葉をみこむ。さすがにそんにすぎる。

 わざわざ碁の相手に彼女を選んでは、勝てば手をたたいて大喜びし、負けそうになるとさっきのように碁盤をひっくり返してなかったことにしてしまう、といういやがらせが毎度のことであっても、だ。

 だが、碁盤に注がれた視線と表情で言わんとすることを感じとったのだろう。三位局がすこし困ったように微笑んだ。

「本日は御息所さまのしきすぐれないようですので」

 その言葉に『本日も』だろう、と聞いていただれもが思ったに違いない。しかし、口を開く者はいないまま、「では」と去っていく三位局の姿を見送った。

 そうして気配が遠のいたところで百合は、ほう……と息をこぼした。

「あいかわらず、てきな方」

「本当に。御息所さまのかんにも嫌な顔ひとつせず対処されて」

にようぼうかがみのようなお方だわ」

 百合のあこがれ混じりの呟きに、ほかの女房たちもまた声を潜めて囁きあう。

「今までうわさのひとつもなかったことが、不思議なくらい」

「なんでも、どちらかの宮家のひめぎみだとか。とうぐう直々のおこえかりで出仕なされたそうよ」

 香子にはそれも気に食わないことのひとつらしい、とはだれも口にしないものの、共通したにんしきだ。

 女房とひとくくりに言うものの、その中にも格がある。おおむね、実家の家格やけいの地位によって決まるもので、上はきんじきを許されあるじそば近くにある者から、下は身の回りのお世話をしたり、ざつえきに従事する者までいた。

 三位という位と一室をたまわり『三位局』と呼ばれる彼女は、当然格が高い。

 当代一のと名高い皇后にはかなわないまでも、だれもがれるようなぼうの持ち主というだけでしやくさわるのに、そのけいからおいそれとはあつかえない三位局を、香子は目の上のたんこぶのように思っている──というのはもはや桐壺ここの常識だ。

 とはいえ当の本人はおごらず控えめ、それでいてしかるべき折にはぜんと対処できる三位局は、まさに『女房の鑑』ともいうべき女性だった。

 ──あの方こそが、わたしがめざすべき理想の姿だわ。

 百合は布地の下で、ぐっとてのひらにぎった。

 なかなかにぜん多難だが、千里の道も一歩から、だ。

「さあ、わたしたちも自分の仕事にとりかかりましょう」

 まずは任された仕事をかんぺきに仕上げなくては、と百合は仲間に声をかけると、染めあがったばかりの布地を装束に仕立てるべくゆかへと広げた。

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