第1話

「わたしがとうぐうにようさま付のにようぼうに?」

 きの春、まるで野山を写しとったかのごとくしゆあふれる庭に、百合のわずかに裏返った声がひびいた。

 春とはいえすこし暑いくらいの気候に、御簾を半分ほど巻きあげ、妹と二人廂ひさしの間で針仕事をしていた百合は、宮中から戻るなり開口一番に告げた父親をぜんと見上げた。

「そう、今日大だいごんよしふみさまからお話があってね。このたび、東宮のおきさきとして後宮入りされるたかさまの女房として、ぜひにと」

「わたしが、後宮に……」

 にこにこと頷いてり返した実茂に、百合もまたたしかめるようにつぶやく。

 東宮の女御付の女房になる、ということはすなわち、女御に仕える者として内裏へあがるということだ。

「おや……いやだったかい? 百合の気が進まないというのなら、」

「いえ、ぜひ!」

 反応のにぶい娘にうれいをのせた父を、百合は勢いこんでさえぎった。

 宮仕えなど、簡単にできるものではない。身分はもちろん、見目のよさや仕えるにふさわしい才覚が必要になる。

 なにより必要なのは、えんだ。伝手つてがなくては、いくら自分が望もうと話さえこない。

 それがむこうから転がりこんできたのだ。断る理由はなかった。

 ──血筋はいいのに、出世欲よくも要領のよさもない父さまに任せておいたら、この家はかたむく一方。わたしがなんとかしないと。

 撫子もそろそろ裳着をむかえるが、このままではろくなえんだんもないにちがいない。なにしろ、けつこん後に夫の身の回りの世話をするのは妻の実家の役目なのだ。

 ──さいしようちゆうじようみなもとのまさゆきさまの北の方が、結婚前はさびしいお暮らしぶりだったのは有名な話だけど、あんなのは例外中の例外だもの。

 そもそもその北の方は、えんぷくで有名な左大臣のらくいんだったのだ。宰相の中将と結婚したのは、たまたまはらちがいの兄である現左こんのたいしようふじわらのあけさだによって見出みいだされ、左大臣家のひめとして迎えいれられた後の話だから、じようきようが違う。

 みかどをも巻きこんだ、当時銀しろがねしようしようとあだ名された雅雪と左大臣家の姫のこいものがたりは、都では知らぬ者のない話だが、参考にはならない。

 かえって、左大臣のような色好みにたわむれに手をつけられ、相手が気まぐれにかよってくるのを待つだけの、寂しい身の上になる可能性の方が高い。

「──そうなる前に、撫子にはわたしがきちんとしたお相手を見つけなきゃ」

 妹の器量なら、夫の方がいれこんで早々に北の方として自身のしきに迎えいれる、ということも夢ではない。そのためにもまず、この家の内情を立て直す必要がある。

 東宮女御の女房として内裏にあがったところで、さしたる収入が得られるわけでもないだろう。かといって、雲の上の人々にめられることを期待するほど、夢見がちでもない。

 しかし、才覚を示して上の方々の目に留まることができれば、のしあがる機会もめぐってくる──はずだ。

 めざせ立身出世、と意気込んだところで、そういえば……と百合は父親の顔を改めて見上げた。

「ところで、どうしてわたしにお声がかかったの?」

 くだんの大納言とかかわったことなどなかったはずだが、と小首をかしげていると、ああ、と実茂ががおもどっておっとりとあごをひいた。

「すこし前に、右大臣さまのうたげがあっただろう?」

「父さまが出仕姿で参加しようとした、あれよね」

「あの時に着ていった直衣のうしが、評判がよくてね。仕立ての見事さはもちろん、色の見立てもひととおりではないと興味をいだかれたようだ」

「そう、なんだ」

 使い回しをそうまで言われると、いささかおもゆい。

「百合は仕立てだけでなく、染めも得意だから、お役にたてるだろうと思ってね」

 それに、と父の笑みが深まる。

「女御さまのもとでなら、うちではめったに手にはいらない染料もあつかえるよ、きっと」

「父さま……」

 自然をでては楽をかなでて歌をむ風流人、といえば聞こえはいいが、ばなれした父親がそこまで考えていたのかと目を瞠る。

 ──でも、そっか……。

 あるものだけでどこまで思う色がだせるか苦心するのもおもしろくはあるが、めずらしい染料が使えるかもしれないと思うと、出世云うんぬんとは違う意味で心がおどった。

「さすがにこうぜんおうたんを見るのは難しいだろうけど」

 帝と東宮しかまとうことを許されない、最高位のきんじきを目にする機会はないだろうが、だいは──特に後宮は、さまざまなしきさいの華やぎに満ちているだろう。

 その分闇やみそうだが、とまだ見ぬ宮中に思いをはせながら、百合は居住まいを正した。

「そのお話、お受けしますと大納言さまにお伝えしてください」

「わかった。そう伝えよう」

「……姉さま、内裏へあがられるの?」

 うんうんとうなずく父とは反対に、心細そうな声がとなりからあがる。撫子だ。

 百合は妹の方へむき直ると、そっとその手をとった。

「今、聞いたとおりよ。わたしは内裏でがんばるから、撫子は父さまのことよろしくね」

 この家に父と妹を残していくことにうしろがみがひかれない、と言えばうそになる。

 母親はなく、しきだけはやたら広い屋敷にはいくにんかの下働きの者と、父が子どものころから仕える老いた女房たちがいるだけだ。

 おっとりした父と気質のよく似た妹だけにするなど、むしろ不安しかない。それでもこの機会をのがすわけにはいかなかった。

 ──姉さまががんばって、いいえんを見つけてくるからね…っ

 心の中でちかいながら、妹の手をにぎる手に力をこめた時、

「ああ、そうそう」

 実茂が思いだしたように声をあげた。

じゆだいは今月末だそうだよ」

「今月末!?」

 思わず耳を疑って、百合は勢いよく父へと首を巡らせた。口にした当の本人は、なんでもないことのように首を縦にした。

「そううかがったよ。だから、人を集めるのをお急ぎでね」

「今月末って、あと十日もないじゃない!」

 いくらなんでも早すぎる。

「その日を逃すとよき日がだいぶ先になってしまうらしい。──お断りするかい?」

「しません!」

 宣言するなり、すっくと立ちあがった百合は、出立までにするべきことがらのうにあげていく。ゆうちように感傷にひたっているひまはなかった。

 後宮にあがるのが今月末ということは、すくなくともその前日、ことによると二、三日前にはこの家をでることになる。父のように屋敷から内裏へおもむくわけではないのだ。大納言邸ていより、女御となるひめぎみやほかのお付きの者たちといつしよ殿てんへのぼることになるのだから。

 そこから出立の日まで、撫子と満足に別れをしむ時もなかった。

 自らの用意を調えるとともに、先々のことをして父や妹のしようぞくを準備しておく。古参の女房たちにも自分がいなくなったあとのことを指示し、不足はないかたしかめる。

 そんなあわただしさの中、あっというまに出立の日はおとずれた。

「──まだ早いけど、夏物は用意しておいたから。ころもえもまだのうちにうっかり父さまが夏直衣を着ないよう、注意して」

「わかりました」

「なにか困ったことがあったら、ふみを送って。戻ってくるのは難しいけど、なにか手を考えるわ。いざとなったら、叔母おばさまをたよりなさい。事情をお話ししてお願いしてあるから」

「はい。姉さまも便りをくださいね」

「そうね、宮中の様子など書いて送るわ。──ああ、でも、やっぱり心配……」

 本当にこの二人だけにしてだいじようだろうか、とあれやこれやと思いつくかぎりを並べてなお、不安はぬぐえない。

 別れを惜しむ姉妹に、実茂が「ほらほら」と声をかけた。

「そんなことではいつまでたっても出立できないだろう」

「わかってます」

 父の言うことももっともだとひとつ息をついて、百合はすっと背筋を正した。

「──では、いってまいります」

「うん、いっておいで」

「姉さまもお身体からだにはお気をつけて」

 そうして父と妹の二人に見送られ、期待と不安をかかえながら百合は生まれ育った家をあとにしたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る