鳴る神の 音のみ聞く 富士のみね

いかでかしらむ 燃ゆる思ひを──




 ふと感じた人の気配に、百合ゆりは針を運んでいた手を止め、の外へ目をやった。見れば、ゆったりとした足どりで簀子すのこえんをいく父の姿がある。

「父さま?」

 その姿につとまゆをよせ、百合は立ちあがると御簾から顔をのぞかせた。

「父さま、出かけるの?」

 大きく日もかたむいたこの時分、どこへいくのかと声をかけると、

「おや、百合」

 父実さねしげり返り、目元に笑いじわを刻んだ。うでにはらしき包みをかかえている。

「なに、右大臣さまのかんおううたげに呼ばれていてね。ちょっといってくるよ」

「ちょっとって……父さま!」

 いかにも気軽に告げて再び歩きだそうとした父を、百合はあわてて呼び止めた。

「待って、その格好でいくつもり!?」

「そうだけれど?」

 なにかおかしいか、と言わんばかりにまとったあけほうを見下ろした実茂に、百合は頭を抱えた。

「右大臣さまのおしきで開かれる宴に、出仕姿(仕事着)でいく人がどこにいるのよ!」

「そうかい?」

「ああ、もう……いいから、ちょっと待っててっ」

 心底不思議そうな父親にぴしりと言い置いて、百合はへととって返した。

「大方、右大臣さまに琵琶をしよもうされたんだろうけど、ほんとこういうところはとんちやくなんだから」

 はばひろい知識と教養があり、古今の礼式にも通じているはずなのに──なにしろ、式部省の役人だ──自身のこととなるとまるでかまわない。こんな風だから、摂関家藤ふじわら一門でありながらぼつらくしたびんぼう貴族に甘んじるはめになるのだ。

「今からなら、宴の中心は夜よね」

 日が暮れる前からはじまり、酒をわしながら楽をかなでてまいい、と夜がけるまで続くのが慣例だ。

「たしか、主上おかみからほうたまわった布であつらえた直衣のうしがあったはず」

「──姉さま、どうかされたの?」

 しようのおさめられているからびつあさっているところへ、すずを転がすような声がかかる。

撫子なでしこ

 首だけで振りむくと、そこには妹の撫子の姿があった。

 首をかしげるのにあわせて、われていないつややかなかみがさらりと流れる。けるように白いはだに、紅をさしたかのような赤い小さなくちびる、大きすぎない切れ長の目元は、いつ見ても我が妹ながらためいきがでるような愛らしさだ。

 おもしに似たところはあるものの、目が大きすぎるのが玉にきずな自分とは逆に、玉のような美しさ、とはこういうことを言うのだろう。

 ──これでまだ前だっていうんだから、すえおそろしいわ。

 成人したあかつきには、なよ竹のかぐやひめのごとくきゆうこん者が列をなしてもおかしくない──本来なら。

「──て、そんな場合じゃなかった」

 ふるっと頭をひとつ振ると、百合は実茂を目で示した。

「ちょうどよかった。撫子、父さまのあれぐのを手伝ってあげて」

「? わかりました」

 おっとりとうなずく妹に父のことは任せて、百合は唐櫃へと視線をもどした。

 ──さしぬきなはだいろのものをはいてるから、そのままでいいとして……。

 貴族のまとう衣裳には、身分やねんれいによって複雑な決まりがある。きんじきといって、許されていない者が使うとばつせられる色があるのを筆頭に、布地の種類から、織りこむもんように種類までさまざまだ。

 そこにはあんもくりようかいと言うべきものまであって、外せば笑い者になるだけでなく、非常識のそしりはまぬがれない。

 そのしばりの中でどう自分の感性をだすかが、私的な場では特に問われるのだ。

「父さまなんかは禁中で直衣が許される身分でもないしね……っと、あった」

 百合が唐櫃からひっぱりだしたのは、表地をむらさき、裏地を白の絹で作った直衣だった。

 昨年の秋、宮中で開かれた宴で実茂が琵琶を奏でた際、その見事さをみかどに賞賛され、褒美として賜った紫のたんもので仕立てたものだ。

 帝より賜ったとはいえ、実茂の官職は正五位下のしきぶのたいだいで纏えるのは緋の袍と決まっているため、私的な服である直衣をあつらえたのだ。

 身分の上下なく纏うことを許された、ゆるし色──こきむらさきは禁色だ──のはんの、すこしあわむらさきいろはまるで……

やみの中、ほんのりかびあがる夜桜ってね」

 広げてほつれなどがないかあらためると、百合はひとつ頷いた。

 妹によって袍を脱がされた父のもとへと足早にむかえば、あら、と撫子がそれに目を留めた。

「姉さま、それはうつろいぎくではありません?」

「そうよ」

 頷きながら、百合は『移菊』と呼ばれた直衣を父へとさしだした。

 移菊、とは色目の名のことだ。

 きぬの表地と裏地の色の重ねあわせや、女性のしようぞく──十二単ひとえの衣を重ねる色のとりあわせを、かさねの色目という。

 その色の重なりは、季節ごとの草木花のいろどりを表現しており、どう色を組みあわせるかは定型化している部分も多い。表に紫、裏に白を組みあわせた『移菊』もそのうちのひとつだ。

 けれど、みなが皆決まりきった格好をしていてはじようちよに欠ける。ここでふうらすのも個々人の感性次だいというわけだ。

「桜で紫を使うなら、つうは表を白、裏を紫にしてほのかに紫が浮かびあがるように見せるものだけど、あえて逆にしたの」

 言いながら、さしだされるままに父が纏った直衣の形を整えていく。

 い色合いの紫が表地なだけに、裏地の白はそでぐちえりからわずかにのぞく程度だ。

「この方が夜桜のぜいでしょ?」

 まあ……と撫子が小さく目をみはる。

 桜のかさねなら、くれないうすべに、あるいはもえといったはなやかな色を用いたものが主流だが、それだけにだれもが纏ってくるはずだ。とりたてて若いわけでもなく、権勢をほこるわけでもない父にはこれくらいがちょうどいいだろう。

「それに、季節ごとに衣裳をあつらえるゆうもないしね、我が家には」

 そう、百合は独りごちるようにつけ加えた。

 ぎようのような大貴族なら季節にあわせて新しい衣裳をそろえることもできるが、満足に使用人をやとう余裕もない貧乏貴族にそんな真似まねができるはずもない。布地もせんりようもただではないのだ。

「ものはとらえよう、うまく使い回さないと」

 秋の色目だろうと、使えるなら使わない手はない。

 当の実茂はといえば、むすめの整えた衣裳をにこにこと見下ろしていた。

「やあ、これは立派な衣だ。さすがは百合だね」

「はいはい、おくれて失礼にならないうちにいってらっしゃい」

「うん、いってくるよ」

 改めてわたされた琵琶をかかえ、実茂がをくぐって表へでていく。

 やれやれ、と百合は撫子とともにその背を見送った。

 このことが自分の運命を変えるとは、つゆとも思わずに──。

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