第3話


 ジェーンが教えてくれた方へ、レリンは急いだ。以前の授業で製作したハンカチとちがい、これは貴重な純白の綿めん製だ。おづかいをめてこうにゆうし、ていねいに刺繡を入れようと時間をけて作っていた。いつぱん的な木綿よりもデリケートなので、小枝などに引っかかると破れてしまうかもしれない。

(穴やほつれだけはかんべんして……!)

 そういのりながら校舎の角を曲がり、じや道の広がる広場に出る。この辺りは馬車停めの場所にもなっており、足元はでこぼこしているしすなぼこりも激しい。

 どろならば洗えばなんとかなるが、破損だけはまぬかれたい。不安に胸をざわめかせつつ白いハンカチをさがすレリンだが。

 ここからはちょうど、りんせつする上級学校の校舎が見える。そんな砂利道の先で、背の高い人物がこしをかがめ、何かを拾い上げたところだった。

 その人が手に持っているのは、白いハンカチ。

「あっ……! あの、すみません……!」

 走りながら声を上げたため、ちゆうからき込んでしまう。昔から体力には自信がないのだ。

 ハンカチを拾った人物はおどろいたように顔を上げ、砂利道の途中で立ち止まってぜえぜえ息をつくレリンを見て動きを止めた。そしてレリンもまた、こちらを見つめる人物を目にして息をむ。

 学校のだれかかと思った。教師か、女子生徒か。

 だがその人は女性ですらなかった。聖堂学校のしき内だというのに。

「……男の人?」

 秋風が吹く。

 レリンのフードが外れ、内巻きの茶色のかみあらわになる。

 レリンの目の先でも風が吹く。ハンカチを拾った男性の、柔らかそうな赤金きんぱつれる。

 たいを引きめるしつこくの軍服姿に、胸には階級を示すバッジ。レリンは軍事階級に明るくないのでそれがどの階位を表すものかは分からないが、一般兵でないことは確かだ。

 女子校の敷地内に男性がいること、その男性がレリンのハンカチを持っていることにまどい、レリンはすぐには動けなかった。

(こ、こういうときは、どうするんだっけ?)

 ここはハンカチを拾ってくれたことになおに礼を言うべきか、それとも男子禁制の校内にいる男に対して悲鳴を上げて警備兵を呼ぶべきか。

 しゆんじゆんするレリンよりも先に、男性の方が行動を再開した。彼はレリンがハンカチの持ち主だと察したのだろう、長いあしで歩み寄ってきてうやうやしく礼をする。学校で一応のれい作法を習っているレリンでもはっとするような、気品に満ちたお辞儀だ。

「こんにちは。聖堂学校のおじようさまですね。ひょっとして、このハンカチはあなたのものですか?」

 男性の声は、をくすぐる心地ここちよいテノールボイスだった。

「……は、はい、そうです」

 舌がもつれそうになる。

 相手はとても丁寧なしんのようだ。レリンは今まで、男性と接したことがほとんどないため、どう話を続ければいいのか分からない。だが、だからといって礼もせずにハンカチを取り返すのはよろしくない。

 ハンカチを拾ってくれた恩人の顔を見ようと、レリンはおもてを上げ──

「……『王子様』?」

 つい、ぽろっと出てしまった。

「え?」

 不思議そうな声が返ってくる。レリンははっと己の口を手でふさぐが、時既すでおそし。


 うるわしい、「くろ団」の青年。まぶしい赤茶色の髪に、鋭い青緑色の目。成人男性にしては体の線は細いようだが、グラウンドで見かけたあのけん太刀たちすじから、「黒騎士団」の実力を量り知ることができる。

 そんな彼の姿からさいほう教室のクラスメートが勝手に付けたあだが、「王子様」。ひねりも何もない呼び名だ。

 レリンのハンカチを拾ってくれた紳士はまさに、あの「王子様」である。みながあまりにも王子様王子様と連呼するので、つい口をいて出てしまった。今までは教室の窓からのぞき見するだけだったたかの花が、今ここで、レリンの前に立っている。白手ぶくろめられた手にレリンのまつなハンカチを持ち、恭しく差し出してくる。

 ──そう、まさに絵本に出てくる、王子様のように。

 ぼん! とレリンの顔から火が出る。おそらく今、自分は紅葉した落ち葉のように、はしたないくらい赤面していることだろう。

(わ、私ったら何てことを!)

 真っ赤な顔のままこうちよくしてしまったレリンをよそに、青年は「王子様か……」と口の中でつぶやいた後、持っていたハンカチを改めてレリンの方に差し出してきた。

「申し訳ありませんが、私は王子と名乗れるような身分ではございません。それでもよろしければ、こちらを受け取っていただけませんか?」

「っ! もちろんです! ありがとぶございます!」

 あわてて返事をするものだから、途中で舌をんでしまった。痛い。舌よりも、心が。

ずかしい……せめて少しでも上品に、ゆうに対応したかったのに……!)

 みっともない失態にますますほおに熱が上り、いよいよなみだがこぼれそうだ。男性からハンカチを受け取ってむなもときしめ、レリンは頭がぐつぐつえたぎりそうになってうつむく。

 直視するだけでしんぱくすうが上がってしまうような、美しい騎士の青年。ハンカチを差し出す動作は洗練されており、彼の手に泥にまみれたハンカチを持たせたことさえ、すさまじい罪であるかのように思われた。

 ヨランダたちがきゃあきゃあはしゃいで「王子様」と呼ぶ気持ちもよく分かる、おとぎ話に出てくるような騎士様。それに対して、はしたなく赤面するし貧相な身なりだし舌も嚙むしで、残念な自分。

 これ以上泥を付けないようにハンカチを上着のポケットに入れたレリンは迷いつつも、青年に声を掛ける。もう舌を嚙まないよう、努めてゆっくりと。

「あの、本当にありがとうございました。……その、どうしてこちらへ?」

「男性である私がなぜ聖堂学校内に、ということですね。実は私は本日、フランチェスカ王国王女ルディア殿でんの護衛として参りました。だんであれば男子禁制の聖堂学校にも、特例ということで入校許可をいただきました。もうじき殿下がとうちやくされるので、見回りをしております」

「そう、でしたか……お勤め中にお手をわずらわせてしまい、申し訳ありません……」

 やはり相手は、自分ごときが気軽に接することができるようなお人ではなかった。

 普段は剣術師はんとして上級学校に招かれ、本日はルディア王女の護衛に選ばれるような「黒騎士団」のエリート。

(どうしよう、こういう時って改めてていちようにお礼を申し上げるべき? それともお仕事のじやにならないように、さっさと退散するべき?)

 これからどう動こうか迷うレリン。今まで「黒騎士団」と話をすることなんてなかったので、これからどういう風に話を持っていけばいいのか、分からなかった。

 ──レリンは俯いていたので、気づかなかった。

 戸惑うレリンの旋毛つむじを、騎士の青年が見つめていたことに。

 何かを思い出そうとしているかのように、目を細めて──

「レリーン! ハンカチ見つかったー……あれ?」

 のほほんとした明るい声。この声に助けられたのは、本日で二度目だ。

 校舎のかげからのんびりと歩いてきたのは、ジェーン。拾ったれをうでかかえているが、彼女はレリンと、レリンと向かい合う青年を見てかたまゆね上げる。

 そしてジェーンの小さなくちびるがすぼまり、ぷふっ、とおどけたような音を立てた。

「あらやだー、お取り込み中?」

「それはこ」

「ちっ、違うわよっ!」

 青年が何か言いかけたがそれより早く、レリンはり返って大声で否定する。

(わ、私が騎士様と「お取り込み中」なんて! ありえない!)

 騎士の前で無礼なこうをしてはならないとレリンは全力で否定するが、レリンのとなりまで来たジェーンはニヤリとみをかべ、青年を見上げて小さく口笛を鳴らす。

「格好いいお兄さんじゃない。学校内でレリンをナンパするなんて、やるわねぇ」

「……めっそうもございません」

「レリンはかわいいから、声をけたくなる気持ちは分かるけど。取り込むならよそでやってねー。ここは人目もあるから」

「ジェーンっ!」

 声が裏返る。

 見ず知らずの青年にもズバズバと失礼なことを言うジェーンに、レリンは気を取られていた。そのため、青年がヒクヒクと頰を引きつらせ、射殺すようなまなしでジェーンをにらんでいたことに気づかなかった。

「あのねっ、こちらの騎士様は私のハンカチを拾ってくださった親切な方で……すみません、ジェーンに悪気はないのです」

 ジェーンに説明した後、急ぎレリンは振り返って青年に謝罪する。

 とたん、青年はそれまでジェーンに向けていた険悪な眼差しを引っ込め、じりを垂らしてレリンに微笑ほほえみかけた。その変わり身の早さたるや。一部始終を見ていたジェーンは、ククッと低く笑う。

 青年はしゆくするレリンをいたわるようにやさしく見つめ、首を横に振った。

「構いませんよ。さあ、そろそろ殿下の馬車が到着します。この辺りは行列になるでしょう」

「そう、ですね……あの、本当にありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

 何が「こちらこそ」なのかは分からないが、青年のげんは始終よさそうだったので、気にすることではないのだろう。

 謝罪は述べた。やるべきことは終わった、はずだ。

 レリンは頭を下げた後、ジェーンが抱えていた布をごそっと回収し、げるように青年に背を向けた。胸が、ドキドキ鳴っている。

(とても、てきな人だった)

 足早に歩きながら、レリンは思う。

(王子様みたいに格好よくて、優しい人。でも、私とは全然違ちがう人)

 今日の出来事は、一生に一度、あるかないか──なくても当然と言えること。平民のむすめが「黒騎士団」にハンカチを拾ってもらい、しかも少しではあるが言葉もわせるなんて。

(もう二度と、お話しすることなんてできないよね……)

 明日からはまた、上級学校のグラウンドに立つ彼を遠くから見つめるしかできない。優しい甘さをふくんだ低い声はもう二度と、聞くこともできないだろう。

 レリンはそっと、自分の頰に冷たい手の平を当てた。

 まだそこは、ほんのりと温かかった。


 茶色のかみの女子生徒が、足元もあやしげに立ち去っていく。

 後に残された「ジェーン」はしばし、友人の背中を見つめていた。そして青年を振り返り見、ニヤリと──とてつもなく意地の悪い笑みを浮かべ、とてとてと友の後を追っていった。

 青年は腕を組み、片頰を引きつらせて「ジェーン」を見送る。

「……何やってるんだ、あの人は……」

 低い声で呟く。先ほど茶色の髪の少女に別れのあいさつをしたときとはうんでいの差の、いらちを含んだうなるような声だ。

 青年はくしゃりとおのれの前髪をにぎつぶす。「ジェーン」を見ているとついつい表情を引きつらせてしまい、先ほどは茶色の髪の少女──レリンに己のゆがんだ顔を見せないよう、取りつくろうので必死だった。

「……フォルス」

 ざわり、と風がく。

 名を呼ばれ、青年は振り返った。そこには自分とおそろいの「くろ団」の制服を着た騎士が。

 彼の身長は自分よりも高く、体格もいい。おおがらな騎士は、聖堂学校の正門の方を手で示した。

「『ひめ様』の馬車が到着する。路程は始終良好。そろそろ配置に付くぞ」

りようかい、ジオ」

 青年は片手を挙げて答え、先に歩きだしたどうりようを見送った後、ふと顔を上げた。

 ゆるい茶色の巻き毛を持つ少女。

 拾ったハンカチには作りかけのしゆうほどこされていた。きっと、彼女の手作りだろう。

 あのころから、彼女は刺繡の練習をがんっていたのだから。

 ──レリン、とその名を呼ぶ。

 その声は自分でもおどろくほど甘く、とろけるようなひびきを持っていた。

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