好物の前では抗えない
「ああっ、待って、待って下さいっ」
後ろから彼の声が聞こえ、なんとしてでも撒いてやろうと必死に人ごみに紛れながら歩幅を広げるが、焦るとただ歩くだけなのにつまづいてしまいそうになる。
背後から僕の名前を呼んで居る。
「水森さんっ、まって!」
人の居る様な所で名前を呼ぶんじゃあないと言ってやりたいが、とにかく逃げよう。
競歩なみの早歩きから小走りに変わり、ようやく曲がり角に差し掛かり、そこを曲がったら隠れてしまおうと思い、僕は勢い良く曲がった。しかし。
「うわっ」
「きゃっ」
曲がった途端に見知らぬ若い女性と肩がぶつかり、彼女が持っていた手荷物を歩道にぶちまけてしまった。
「あっ......すいませんっ。大丈夫ですか?」
「えっ......はい......」
僕はすぐに路面に散らばった彼女の手荷物を拾い上げて渡し、即座に踵を返そうとしたが遅かった。
「水森さんっ、待って下さいっ」
「えっ、うわわわっ」
間近で彼の声が聞こえ、恐る恐る振り返ると、既に手許に受領書を握りしめた色男が立って居る。
逃げている時にとっ捕まるのは心臓に良く無い。背中に冷たいものが走る。
「こ、これっ」
ずいっと目の前に受領書を突き出された。
「う......」
角を曲がった時にぶつかった彼女は、なぜかまだその場に佇み、頬を染めながら彼と僕のやり取りを黙って見て居る。
早くどこかへ行けよ思いつつも、仕方が無く彼から受け取ろうとした。
「どうも......」
「待って」
「ひいっ」
彼の手許から受領書を取ろうとしたその瞬間、手首を掴まれ、僕は驚きおかしな声をあげてしまった。恥ずかしくて今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、彼の力は強く、簡単には振りほどけない。
「はな、してっ!」
「ちょっと! 待ってよ」
「いやだっ」
「お願いっ、俺と友達になって!」
「えっ......はぁ?」
どんな暴言で痛めつけられるのかと構えていた僕は拍子抜ける。彼から逃げようと懸命に引っ張っていた片腕の力が自然と緩まると、今度は両手を取られた。掴まれた両手首が、ジンと熱い。
そしてアップでも耐える美しい顔を寄せ、予想外の誘惑を僕に仕掛けて来た。
僕の耳許で、そっと、こう囁いた。
「先週発売したN先生のOVA、もう見た?」
発売前にネットで予約した筈なのに、実はミスぽちしていて注文になっていなくて、尚且つ気付いた時には既に遅く、どこのサイトも在庫切れの状態で数週間後の再入荷まで手に入れられない状態になっていた物だ。
ゴクリと喉が鳴る。
「まさか、えっ、あ......あんたN先生のファンなのか?」
僕がN先生の名前に食らいついたのを見た彼は不敵な笑みを浮かべた。
釣り針に付いているN先生と言う名の餌に食らいつき、あと少しで喉に釣り針が深く刺さる寸前の所まで来ていると言う確信があるのか、彼はさらに畳み掛ける。
「それにね、絶版になっているK先生のノベルスも多数あるよ。もし既読じゃなきゃ......今週末に俺のウチに来ない?」
僕の腐男子心を揺さぶる素晴らしい餌だ。
ひじょーに魅力的なお誘い。でもなぜ、どうして僕なんかに声を掛けるのかが不思議でたまらない。
彼は濁りの無い澄んだ瞳を僕に向けているのにどうしても訝しんでしまう。
どうしても初めから心は開けないのは長年の習性。傷付けられるのが怖くて、心を開くまでの一線は超えられない。
人付き合いの上で、下手に踏み込んで嫌な思いをするくらいなら、初めから関わらないのが一番だ。それが僕の信念。
目の前には美味しいお誘いがチラついているのに、郵便局で2度しか顔を会わせた事のない、まるっきりアカの他人に警戒せざるを得ない。
「いや、アンタの事良く知らないし、遠慮しとく」
「なにも遠慮なんてしないでウチにおいでよ。きっと有意義な時間を過ごせるからさ」
掴まれたままの両手首をブンブンを揺すりながら、彼は真剣な目で訴えてくる。なぜそんなに必死になるんだろう。
「でもいい。そんなのは、あのジャンルの好きな女の子でも誘えばいいじゃないかよ。アンタなら引く手数多だろ?」
急に思い出した。彼は僕の推測からリア充。ふんっ、としらけた視線を送ってやる。でも彼は僕のそんな冷たい視線に動じない。そして深刻な表情を浮かべていた。
「女性じゃダメなんだ。そんなの知られてしまったら恐ろしい。キミはそうとは思わないのかい? 女性にあれらの事が知られてしまったら、俺らは白い目を向けられる」
「ああ確かに。ん? そう言えば、さっきからフツーに会話成立してるけど、アンタは腐男子なのか?」
「えっ、そうだけどそれが何か?」
「いや、別に」
「だから俺と腐男子仲間になって下さい。お願いしますっ」
彼はまだ握っていた僕の手を引き寄せ、美しい顔で僕を間近でみつめている。漫画の世界なら、この状況で行くと背景に大きな薔薇が咲き乱れていそう。
「勝手に決めっ、あ......う......いや、でもな」
「俺らの高尚な趣味はマイノリティ。異性ならともかく、同性となるとその絶対数は絶滅危惧種と相成る。この出会いは大切にした方が良いと天界からのお導きだよ」
彼の言わんとする事はなんとなく判るけれど、例えが厨二風味で僕の抱いていた彼に対してのリア充臭が薄れてゆく。
実は結構残念なタイプなのかも? そう思うと単純かもしれないが、警戒心も若干薄れた。
「あのさ、好きなカップリングなに?」
基本的な質問を問いかけると、彼は美しい顔を何倍も輝かせた。これはどうやらにわかでは無い様だ。
「ズバリ、幼馴染でしょう」
ヤヴァい、実は僕もだ。僕には幼馴染と呼べる様な友達も居ないから、無いものねだりの心理からなのか、僕は幼馴染がいつしか恋に落ちるのが、ものすごーく好きなんだ。
「わかるよ、僕も幼馴染が一番好き。あとはね、インテリやくざ......あ、リーマンも好物だな」
「おおっ、インテリやくざはイイっ! 自分からは程遠い、非日常的な所はまさにファンタジーだよね」
僕はいつしか彼に手を掴まれながらも腐話で夢中になっていた。
普段はみちるとしか出来ないこの話が、まさか男同士で出来る日が来るとは思わず、人見知りの僕が進んで話すだなんて、自分でも驚きだ。ついさっきまで警戒していたのがウソの様だ。
そして僕らはその場で、背景に薔薇が咲き乱れそうなおかしな体勢のまま話込んでいると、やたらと熱い視線を横から感じた。
ん? と思い、振り向くと、そこには先程衝突した女性が恍惚の表情で僕らを見ていた。なんだ、まだ帰っていなかったのかと咄嗟に思ったけれど、どうやら彼女は僕らを見て喜んでいた様だ。
「あのさ、ちょっと手ぇ離してよ。人目あるし」
「あっ、ああ。失礼しました。じゃあこれ」
「えっ」
僕が離れる様に促すと、彼は僕の尻ポケットに入れてたスマートフォンを勝手に取り出し、鮮やかな手つきで自分のナンバーとアドレスを入力し、また尻ポケットに埋め込んだ。
「そこのあなた、見世物ではありませんよ」
「では、今週末は俺の家で逢いましょうね」
傍で見ていた彼女に一瞥し、僕の耳許で囁いた。まるで煽る様に。
そしてやんわりと窘められた彼女は我にかえりその場から立ち去った。
「じゃ、メールするから」
やけに色っぽく響く低音が鼓膜を揺すり、背筋をぞわりさせた。
「んっ......」
下半身に響くこんな感覚は初めてで、未知の感覚に戸惑う。おまけに半端に下半身におかしな催しを感じてすぐにその場から動けず、彼が郵便局へ戻って行くのを見送る形になった。
くそっ......僕としたことが不覚だった。
他人とふれあう事には縁遠い僕には、彼がけしかけた距離は未知の領域だ。自分の耳許に、他人の吐息が掛かるなんて僕の中では有り得ないんだ。
でも、こう言う距離感は親しい友人であれば普通なのだろうか? これまで親しい友人も恋人も居なかった僕にはイマイチ良く判らない。
こそばゆい耳許を掌で乱暴に擦り、気を取り直してその場を後にした。
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