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『まちゅぴちゅ』というアカウントをフォローしたのはTwitterを初めてからすぐのことだった。
誰をフォローすればいいのかわからないままTwitterを始めた陸は、まず有名人を数人フォローした。そのあと好きな小説家をフォローし、その小説家をフォローしている人たちのホームを見て回った。そのときすでに1000人のフォロワーがいたまちゅぴちゅの、何が気に入ったのかは覚えていないけれど、有名人ではない人をフォローすることは少なかったから、とにかく魅力的だったのだと陸は思う。
インスタグラムもやっているまちゅぴちゅは、上げた写真をTwitterにも連携させていたので陸は必ずいいねをした。
センスの良い服や靴、手作りのアクセサリーや美味しそうな彩りの料理。それらを撮影する際に映り込む綺麗に片付いた部屋。観葉植物とモダンな家具。
ツイートの内容から、陸より少し年上で、独身、彼氏はしばらくいないということがわかった。
初めから特別視していたわけではないけれど、毎日目にする彼女の私生活は陸にとっては、理想の女性と言えた。
その気持ちがはっきりと恋心だと自覚したのはまちゅぴちゅが自撮りを上げた時だ。
少し酔っぱらった週末気分が良くなり載せてしまったと、翌朝には削除されてしまったまちゅぴちゅの自撮り写真を、陸は自分のスマホに画像保存していた。
顔を見なくてももうすでに好きになっていたまちゅぴちゅは、美しかった。
暗めの茶色の髪は、シャープな顎のラインと綺麗な首筋が映えるショートカットで、少し切れ長の二重は色気があった。
まちゅぴちゅが映画を観たとツイートしていたのと同じ日に同じ映画を陸は観ていた。
まちゅぴちゅが呟いた映画の感想は、まさに自分が感じた事を気持ちが良いくらい的確に言葉にした内容だった。
だから陸は興奮した。自分の語彙力のなさが露呈すると思いながらもリプをせずにいられなかった。「僕も観ました」「ほんと?」「最高でした」「だったよね!」そこからまちゅぴちゅとのリプ合戦が続き、迷惑に感じたからか陸のフォロワーが数人減るほどだった。
そとあと気になるツイートをしている時に話しかけるようになった。まちゅぴちゅはどんな言葉を投げても丁寧に返してくれた。自分だけにではなく、まちゅぴちゅは誰にでも優しかった。
だからまちゅぴちゅはFF外からのクソリプにも丁寧に対応した。無視すればいいのに、と陸は思った。ある時まちゅぴちゅのすべてのツイートにクソリプしてくるアカウントが現れた。そういうことをするためだけに作ったアカウントのようだった。あまりにもしつこくクソリプを送りつけるのでまちゅぴちゅは呟くことをやめてしまった。それは一週間続いた。このままTwitterをやめてしまうのではないかと思った陸はまちゅぴちゅにDMを送った。
まちゅぴちゅとの関係が途絶えてしまうことが怖かった。
――大丈夫ですか?変な奴に絡まれていましたね、気にしない方がいいですよ
何度も何度も推敲し、最低限の言葉だけ残し送信する。まちゅぴちゅからすぐに返事がきた。まるで見張っていたような速さだった。
――ありがとう。ちょっと疲れてしまって、お休みしてました
――まちゅさんのツイートが見られないのは寂しいから、アカ変えるなら知らせてほしいです
――大丈夫、変えないよ。私も7trkさんのツイートこれからも見たいから
まちゅぴちゅからの文面を見て陸は小さく声をあげた。DMでのやりとりは、相手が文字を入力している最中だと知らせてくれるマークが出る。
今まさにまちゅぴちゅが文字を打ち、自分がそれに返信している。しかも相思相愛の内容を。まるでスマホを介して指先を触れあっているような恥ずかしさと嬉しさが込み上げた。
会いたい。まちゅぴちゅにどうすれば会えるだろう。
陸は日中そればかり考えるようになる。出来るだけ自然に、怪しまれずに、上手く誘う方法のヒントがどこかにないだろうか。
ところが誘ってきたのはまちゅぴちゅのほうだった。休日に陸が本屋で雑誌を買い、「渋谷のTSUTAYAで本買った」とツイートしたあとDMがきた。
――私も渋谷にいます。もし良かったら一緒に食事でもどうですか?だめなら遠慮なく断ってね
陸はその場で踊り出しそうだった。行く行く行く!行くに決まってる!興奮した陸はすぐに返事を送る
――僕も会いたいと思ってました。今どこ?迎えに行きます
まちゅぴちゅが告げた待ち合わせ場所に行く。
鼓動がどうにかなりそうなほど早くなる。
唇が渇き、何度も生唾を飲む。
冷静になれ。自分に言い聞かせる。はしゃいでいると悟られたくない。
なんでもないように装いたい。しかし気持ちとは裏腹に顔がどうしたってほころぶ。
会ったら何て言おう。
まずは名前を告げよう。
7trkは、本名が陸だから、7(なな)t(たい)r(り)k(く)、つまり七大陸なんだよと説明しよう。そして彼女の名前を聞こう。
「お待たせ」
背後から明るい声がした。振り向くとオレンジのワンピースを着た女性が立っていた。まちゅぴちゅだった。
現れたまちゅぴちゅは、思っていたより小柄だった。オレンジのワンピースの胸のあたりだけが素材の違う生地だった。
「あー、はい、こんに……いやこんばんは」
ふふふと上目使いにまちゅぴちゅが頬笑む。
何度も写真で見たとおりまちゅぴちゅは美しかった。綺麗で良い匂いがして陸の理想の相手だった。けれど何か違和感があった。さっきまでの高揚はそのせいですぐに収まった。想像していたよりも少し年齢が上のようなので、違和感はそのせいかなと自分を納得させた。
しかしまちゅぴちゅに会えたことは確かに嬉しかった。
「前から行きたかったところがあるの。付き合ってくれる?」
嬉しそうにまちゅぴちゅが言い、陸は「もちろん」と答える。
道中他愛もない話をまちゅぴちゅがして、陸の緊張感はほぐれていく。
赤い派手な入り口の店の前で「ここなの」と秘密基地を教えるような密やかさで言う。
「そうなんですね」陸はつられて小声になる。「行こう」とまちゅぴちゅが重たいドアを開ける。
民族音楽が流れている店内に入ると、顔の黒い外国人が陸たちを出迎えた。
案内された席に座り、見たこともない品名が並ぶメニューに陸は緊張する。
まちゅぴちゅは目を輝かせドリンクメニューに目を通す。
「とりあえずワインにする。ナナくんは?」
ナナくんが自分であると理解するのに数秒かかる。
「あ、じゃあ僕も同じもので」
「そ。……すいません!この赤をデキャンタで」
まちゅぴちゅが店員を呼び止め注文する。
飲み物の注文を終え、フードメニューを前に「どれにする?」とまちゅぴちゅが尋ねる。
陸は答えられない。
「わかんないよね、どれ食べればいいのか」
言ってまちゅぴちゅが頬笑むので陸はホッとする。
結局店員を呼び寄せメニューの説明を受けた。まちゅぴちゅが数点選び「これにする?」と訊きその全てに「じゃあそれで」と答えた。
二つのグラスにまちゅぴちゅがデキャンタからワインを注ぐ。乾杯をし、目が合い陸は照れる。
「カリンバという楽器にはまっているの。アフリカの民族楽器なんだけどね」
木の板に金属の細い棒が沢山並んでいるその楽器は音色がとても良いのだとまちゅぴちゅは熱心に話す。
いつかアフリカにいったら現地の人とカリンバで一緒に演奏したいらしい。
陸にはどうにもピンとこない話だった。
けれどまちゅぴちゅはそれからもアフリカの民族について調べた色々をいつまでも話した。
おかわりのデキャンタを頼み、ワインを沢山飲んだまちゅぴちゅはますます陽気になる。
陸のことをナナくんと呼んでは饒舌に語り尽くした。
陸は自分のことは何も話さなかった。用意していたアカウント名の由来すら、話す隙がなかった。
陸がトイレに行き、テーブルに戻るとまちゅぴちゅが「出ようか」と言い席を立つ。
伝票を探すが見当たらず、テーブルの下をのぞきこむ陸に「ここは出しといたから」
とまちゅぴちゅが言う。
「あ、そういう訳には」
「いいのいいの」
「じゃあ半分」言って陸は財布を出す。
「いいって!カードで払ったから半分がいくらかわかんないし。次に行くところで出して」
まちゅぴちゅが強く言い陸は引き下がる。
店を出るとまちゅぴちゅが腕を絡ませてくる。小柄なまちゅぴちゅは背のわりに胸が大きかった。腕に伝わる柔らかな感触に陸は動揺する。
「二人きりでゆっくり飲みなおそう」
さっきからずっと二人きりなのに……と陸は思いまちゅぴちゅを見たが、まちゅぴちゅはこちらを見ない。
ああそうか、陸は察する。どこか別の、二人きりの、他に誰も来ない室内で、ということか。
さっきまちゅぴちゅが言った『次に行くところ』はつまり、ラブホテルのような類のもののことか。
「悪いけど俺そういうつもりじゃないから」
考えるより先に口から言葉が出る。
え、と小さくまちゅぴちゅが言う。
「そんなふうにまちゅさんのこと、見てないから」
下心はない、と陸は言いたかった。汚れのない気持ちで、純粋な関係を築くために会いに来たのだと宣誓しているような気持で放った陸の言葉は、けれどまちゅぴちゅをひどく傷つけていた。
「なにそれ」
明らかにさっきとは違う表情で陸を見る。絡ませた腕はもうほどかれていた。
「何しに来たの」
だから……と説明しようとするが言葉にならずにうつむく。
小さく舌打ちが聞こえたような気がしてまちゅぴちゅを見る。
「帰ろっか!」笑顔でまちゅぴちゅが言うが目は全然笑っていない。
「ごめん……」
言うが陸はなぜ謝らなければならないのかわからなかった。
「また飲もう!私タクシー乗るから」
じゃ、と雑に手を振り逃げるようにまちゅぴちゅが去る。
驚きと不満が入り乱れる。
「なんだよ」
とりあえずまちゅぴちゅとは逆方向へ歩き出す。感情が整理できない。
腕にまちゅぴちゅの感触がまだ残っている。
自分の持ち物を見て陸はハッとする。今日買った本をさっきの多国籍料理店に置き忘れたことに気づく。
速足で来た道を戻る。
ああやっぱり自分が悪かったのかもしれないと陸は思う。
陸がまちゅぴちゅと関係を築きたいと思ったように彼女も自分と関係を築きたかったのかもしれない。それが自分とはちがうやり方だっただけなのかも。
店に着き、重い扉を開くと黒い顔の店員がいる。「本を」と陸が言っただけで店員は合点しレジ付近から本が入った袋を出し陸に渡す。礼を言い、店を出てスマホを出す。
きちんともう一度謝ろう。せっかくの誘いを断って悪かったと、心の準備が出来ていなかっただけだと、また会いたいのだと伝えよう。
Twitterを開きDMを見る。なぜかまちゅぴちゅがいない。
少し焦り通知欄を見る。タイムラインをさかのぼる。どこにもいない。
検索バーに『まちゅぴちゅ』と入力し、検索する。見慣れたアイコンを見つける。
いたいた、と思いアイコンに触れる。画面に「ブロックされているためツイートを見ることができません」と出る。
「はぁ⁉」
無意識に声が出る。すれ違う人がぎょっとして陸を見る。
スマホを持つ手に力が入る。投げてしまいたい衝動にかられる。
あのクソ女!!
さっきまでの好意は瞬時に憎悪に変わる。
死ね!!
心の中で叫ぶ。
馬鹿にしやがって。あのチビのクソビッチが。死ね、死ね、殺されろ。
叫んでも叫んでも怒りが収まらない。
悶々としているうちに陸の中に小さく悲しい気持ちが生まれる。
陸は疲れて考えるのをやめる。うなだれて帰路につく。
数日後、陸は思いつく。新しいアカウントを作ってまちゅぴちゅに嫌がらせでもしよう。けれど同時に思い出す。執拗にクソリプを送っていた人物を。
もしかしたらあれは、自分のようにもてあそばれた男の復讐ではなかったのか。だとしたらあの女は、こうやって手当たり次第に男とコンタクトをとり、関係を持つことを目的として会っているのではないか。
そう思うと馬鹿らしくなる。あの女に執着しているほど自分は暇ではないのだ。
陸はまちゅぴちゅにブロックされたアカウントを消そうかとも考えた。けれどそれは敗北のような気がしてやめた。
たまたま外れくじを引いてしまっただけで、自分のように純粋な関係を築きたいと思ってTwitterをやっている人も大勢いるはずだ。
しばらくTwitterから離れていたが、そんな風に思い直し、確かめたいような気持で陸はTwitterを再開した。
今まではまちゅぴちゅばかり見ていたが、そういえばいつもいいねをくれる『ユウ』というアカウントが急に気になり始めた陸は、ユウのホームをよく見に行くようになる。
週末、ナースの格好で顔に赤いインクを付けた写真をアップしていた。ハロウィンって今日だったっけ? 思いながら陸はそのツイートに「可愛いですね」とリプを送る。
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