世界は終末で満ちている。

syatyo

老人の言葉

 その日、世界は核の炎に包まれた。地球が果てしない時間をかけて紡いだ自然も、人間が途方もない時間をかけて積み上げてきた文明も、世界中の誰しもが短い時間をかけて育む感情も。全てが炎に焼かれ、汚され、そして終わった。


 世界最悪の日から丸一日。核により腐敗した日本はかつての姿を失い——次々と、幽霊が生まれていた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 彼——半田はんだ圭吾けいごが、自らの死に気づいたのはまさに偶然と言えた。死の直前に感じた強い後悔と、消えることのない憎悪を抱えたまま、半田は幽体となり道路を歩いていた。文明の利器とも言える自動車が一台も通らないことなど気にならないほどに、彼の思考は霧散していた。


 そのまま時が経ってしまえば、半田は浮遊霊のままだったはずだ。しかし、道路の脇に座った一人の老人が——否、一体の老人の幽霊が、半田を呼び止めた。「何をしている」と。近くに他の幽霊がいなかったことも幸いし、その言葉は一直線に半田の耳に届いた。しかし、著しい反応はない。ただ、何かが聞こえたという風に、老人の方を一瞥いちべつするだけだった。


 もう一度、「何をしているんだ」と、老人は呼びかけた。そうすることでやっと、半田は呆然としたまま答える。「散歩をしている」と。無論、彼にそんな意志はなかった。ただ、目的も目的地もなく、歩いていただけである。だが、半田は自らの身体に起こった異常に気づく。たった一言、「お前は、もう死んでしまったんだ」と辛さを滲ませて放った老人の言葉によって。


 半田はゆっくりと自分の手に視線を移し、数秒だけ行動を停止して、手が透けていることに気がついた。手が透過して、ひび割れたコンクリートが見えている。その事実を知って、過活動している、ないはずの心臓を落ち着けるために深呼吸をした後、彼は同じく透けている老人の元へ歩み寄る。


 不思議と半田の感情の中に恐怖というものはなかった。ただ、淡々と事実だけが記憶に染み込んでいくだけで。やがて、半田の呼吸が落ち着いたところで、老人が、「まだ幽霊になって間もないらしい。自分の家を確認して、気持ちの整理をした方がいい。なぜ、だとか、どうして、だとかは考えるな」と言った。理由のない親切を受け取って、半田は、「わかりました。また、ここに戻ってきます」とだけ言って、変わり果てた姿になった国道12号線を南へ進んでいく。半田の中で死に対する疑問が浮かばなかったわけではなかったが、そこまで気にもならなかった。生前からの性分だった。


 そうやって、半田の心に余裕ができると、周りを見渡す余裕も生まれた。今までは老人の言葉に耳を傾けることしかできなかったが、今は周りの景色に目を向けることができる。しかし、あたりはどこを見渡しても、廃墟ばかりで、元の姿を保っている建物など一つもなかった。地面に目を向ければ、黒焦げになった死体が無数に転がり、生きている人間など一人もいないのだと、半田に悟らせた。ただ、幽体となった人間が呆然と歩き続けているだけだ。


 しばらくすると、見慣れた看板が倒れているのが目に入った。いつも、仕事帰りに寄っていたコンビニだ。ここから数分歩けば、半田の自宅がある。必死に仕事をこなしてようやく買えた、妻と息子と三人で暮らしていた一軒家。思い出しきれないほどの思い出があった。息子がテーブルの角に頭をぶつけて、怪我をしたこと。もう一度そうなるのが不安だから、安全用のスポンジを買おうと、切迫の表情で懇願してきた妻。しかし、その二人はもう半田の中でしか生きていない。


 やがて、感傷に浸っていた半田の目の前に、変わり果てた自宅が姿を現した。近隣の住民から、センスのいい家ね、なんて言われた自宅は見るも無惨に崩れ去っていた。家に近づき、残骸を手に取ると、ぼろぼろと崩れ去った。あまりの高温の熱線に残骸のほとんどが炭化していたのだ。その直視できない光景を目の当たりにしても尚、半田は恐怖を抱いてはいなかった。ただ、核に対する憎悪と、最後に妻と息子に会えなかった後悔だけが彼の中で渦巻いていた。


 しかし、そんな負の感情が吹き飛ぶほどの衝撃が彼の目に飛び込んできた。自宅の玄関だったはずの場所、そこに小さな女の子が俯いたまま座っていた。すすに汚れた真っ白のワンピースを着た、顔の整った女の子だった。それだけなら半田の目にとまることなどなかっただろう。だが、女の子の身体は透けていなかった。「おい!」と、声をかけると女の子は跳ねるようにして顔を上げた。


「誰かいるの!」


 女の子はよろよろと立ち上がり、あたりを見回す。それに合わせて、半田も気づいてもらおうと手を振るが、女の子は気づいている素振りすら見せない。そんなことを一分も繰り返してやっと、半田は見えていないのだと気がついた。ただ、声だけが届いているのだと。半田は急いで女の子の元へ駆け寄る。やはり、目の前に立っても気づいてはくれない。それでも、「私が目の前にいる」と言うと、女の子は、


「どこ!」


 と、必死に声を張り上げて反応する。だから、半田は一瞬だけ迷って、女の子の手を掴んだ。女の子が小さく悲鳴を上げたのを聞いて、半田は慌てて、「君には理解するのは難しいかもしれないが、私は幽霊として君の前に立っている」と、説明を加えた。


「幽霊? 本当に幽霊さんがいるの?」


 今にも泣きそうな顔で話す女の子に、半田は「そうだ」と、精一杯の優しさを込めて答える。そうすると、やがて女の子は表情を緩めて、どこか力の抜けた声で話し始めた。


「そっかぁ、幽霊さんっているんだ。それなら、お母さんもお父さんも大丈夫だよね。わたしも、大丈夫だよね? 幽霊さん」


 主語のない女の子の話に、半田は意味もわからず、「大丈夫だ」と答えた。とにかく安心させなければという善意を言葉に乗せて。すると、女の子はゆっくりと目を閉じて、「よかった」とだけ呟いて、その場に座り込んでしまった。


 疲れてしまったのだろうと、半田は何もせずに女の子を見守っていたが、いくら時間が経っても女の子は立ち上がるどころか、微動だにしない。半田は不思議に思って女の子の肩を叩いて——後悔した。


 女の子は半田の力に合わせて、無抵抗のまま地面に倒れた。その顔にはもう生気はなかった。


 半田は女の子に手を合わせて、全力疾走で老人の元へ帰った。失くしたはずの肺を痛めながら、半田は老人に、「聞きたいことがたくさんあります」と、話を切り出した。唐突なことであるのにもかかわらず、老人は表情を変えずに、「全て答えよう」と、快諾した。


 老人は半田に隣に座るよう促し、半田もそれに従って隣に腰を下ろした。数瞬、沈黙が二人の間に居座った後、半田が口を開いた。


「先程、生きている女の子に会ったのですが……おそらく、私が大丈夫と言ったせいで、死んでしまいました。安心して気が緩んだのだと思います」


「生きている女の子、か。あの炎の中でよく生き残ったもんだ」


 老人は感心したように——そして、悲しむように『生きている女の子』という言葉を噛み締めた。その反応を見て、半田は唾を飲み込んで、話を続ける。


「……私は一人の人間の人生を終わらせてしまったのでしょうか。あまりに短く、呆気なかったので、未だに実感がないのです。自らの言葉で一人の人間を殺したという実感が」


「逆にお前に質問をしよう。確かに、お前の言葉でその子が死んでしまったのかもしれない。だが、お前はその言葉が間違っていたと思うか?」


「……いいえ。間違ってはいないと思っています。ただ……」


「それならいいじゃないか。俺はお前とその子のやり取りを見ていたわけじゃない。だが、これだけは確信して言える。——その女の子はお前の言葉に助けられたんだ。たとえそれがきっかけで亡くなったとしても、後悔なんてするんじゃない。それが言葉をかけたお前の責任だ」


「……それでいいのでしょうか」


 半田は老人の言葉に容易に同意することはできなかった。老人の言っていることは尤もで、納得するべきなのだろう。だが、頭ではわかっていても、心で理解することができなかった。


 頭を垂れて、なんとかして老人の言葉を理解しようとする半田に、老人は再び諭すように話し続ける。


「そうするしかないんだ、俺たちは。生きていてさえ、目に映った全ての人間を助けられるわけじゃない。俺たちに与えられた手は二つだけだ。どんなに頑張ったって、二人の手しか取ってやれない。だから、やれることをやるしかないんだ」


「…………」


「それは生きていた時も、死んだ今も変わらない。全てを助けようなんて、そんなものは偽善だ。そして偽善を掲げる人間ほど、誰かの手を取ってやることはしない。ただ、手を差し伸べて、直前になって手を振り払うんだ」


「……そういうもの、ですか」


「そういうものだ。自慢じゃないが、俺は生きている間を含めれば、二百年はこの世の中を見てきている。その俺が言っているんだから、そう間違ってはいないだろう」


 二百年。とてつもない時間をなんでもないように言い放った老人の言葉は、理解はできなくとも、半田の心に重くのしかかった。そして、沈み込むように心の中に染み渡っていく。染み渡った分、心の中で燻っていた感情が溢れ出てくる。


「……わかりました。それならもう一つ聞いてもいいでしょうか」


「なんだ」


 老人はぶっきらぼうに答える。


「私には妻と息子がいました。ですが、最期は一緒にいてやることができませんでした。私は父親として失格でしょうか?」


「はっ、そんなことを俺に聞いてどうする。そもそも父親の資格なんてものは幻想だ。それぞれの家庭に、それぞれの父親の形がある。失格も何もないだろう」


「いいえ……そのことだけが心残りで、後悔しているんです。最期の時だけではなく、もっと前にも何か出来ることがあったのではないかと」


「後悔、か。俺から言わせれば、どうやらお前は後悔の意味を間違っている」


「意味、ですか? そんなもの、後で悔やむから……」


 老人の指摘に、半田は意味がわからないという風に辞書通りの意味を答える。しかし、老人は、「それは違う」と首を振って、どこか遠くを見ながら、答えを話し始めた。


「後で悔やむから後悔なんじゃない。後で悔やまないようにするために、後悔をするんだ。あの時はああだったこうだったと、過去の過ちを振り返ることで、未来を変えるんだ。もう一度、同じ過ちを繰り返さないために」


「でも、もう妻と息子に会うことは……」


「できるだろう? お前が幽霊として、この世界に戻ってきたんだ。お前の家族がそうなっていても不思議ではない」


「そう、ですね」


 確かに不思議ではない。だが、半田が妻子に会える確率など低い。彼が幽霊として目を覚ました場所が死んだ場所と同じだったことから、他の人も同じだと推測できる。しかし、妻と息子がいつ幽霊になり、どこに行ったかなど、半田の感知する範囲ではない。


「……無理ではない。俺は今日、お前を見つけてそう確信したよ」


「え?」


 老人が突然、要領の得ない話を始めたことに、半田は素っ頓狂な返事をした。しかし、老人は気にも留めずに、話を続ける。


「俺が、お前と何も関わりのない俺が、なぜお前を幽霊としての自覚を持たせたかわかるか? ……昔、死んだ友達に似てたんだ。二百年前に一緒に死んだ戦友とな」


「戦友……」


 おおよそ現代では聞く機会の少ない言葉に、半田は驚きを隠せずにその言葉を繰り返した。だが、ただ聞く機会が少なかったから、ではない。その言葉の重みを噛み締めるために。


「一瞬、目を疑った。俺が死んだあの日から、ずっと探し続けてるんだからな。『俺はお前と最期を共にできて良かった』と、そう伝えてやりたいんだ」


「…………」


 何があったのかは半田には分かりかねる。だが、二百年も変わらずに思い続けることができる何かがあったのだ。それは生半可なものではない。


「だからだ。お前も諦めるな。俺は二百年をかけて、似ている奴を見つけた。お前はもっと早いかもしれない。もっと遅いかもしれない。ただ、人間の時とは勝手が違う。俺たちはもう、死ぬことはない。だが、幽霊としてどれだけ存在できるかなんてわからない。だから諦めるな。いつか来る終わりの日のために、後悔を無駄にするな」


「……あなたの言葉はとても重い。二百年の時を考えても尚、重いですよ」


「それは俺がこの二百年を無駄にしなかったからだ。俺より長く幽霊として存在していて時があるのに、俺より中身がないやつなんて無数にいる。そいつらは与えられた時間を無駄にしているんだ」


 老人は自慢する風でもなく、淡々と言葉を紡いだ。自信がなければ、本当に言葉の通りの行動をしていなければできないことだ。


「ありがとうございます。あなたには感謝をしてもしきれません。——必ず、諦めません。終わる、その時が来るまで」


「あぁ、そうだ。お前はまだ若い。諦めるにはまだ早い。せめて、俺と同じくらい年数を過ごして諦めることだ」


 半田の言葉に、老人は冗談めいてそう答えた。だが、半田には二百年が経っても諦めるつもりはなかった。目の前の老人が諦めていないのに、誰が諦められるというのか。


 そこで話は終わり、長い沈黙が流れる。本当に、長い沈黙が。日が沈み、また日が昇るまで。二人は横に並んで座って、ただただ街行く人を——幽霊を眺めていた。やがて、朝が訪れるという時に、老人がゆっくりと口を開いた。


「よし。俺は少し散歩をしてくる。おそらく戻ってくる」


「わかりました」


 短いやり取りをして、老人は立ち上がり、そして何かを思い出したように半田に背を向けたまま話を切り出す。


「言い忘れていたことがある」


 そうやって前置きをして、老人は空を見上げながら次の言葉を続ける。


「今の世界は『終わり』で満ち溢れている。家も車も何もかもが、終わっているんだ。お前もわかっているだろうが、そこらへんにいる幽霊たちもほとんど終わってるんだ。目的も持たず、ただ歩いているだけ。今、終わっていないのは俺とお前だけだ」


 そこで一旦、老人は何か覚悟を決めるように深呼吸をした。


「——だから、お前だけは終わってくれるなよ。終末で満ちた世界に呑み込まれるな。絶対、だ」


「——わかりました」


 半田は死ぬ前にこの老人に会いたかったと、心からそう思った。そうしていれば、三十五年という短い時間を有意義に過ごせたはずだ。自分ができることだけをやって、できることなら諦めない。後悔のしない人生を歩めたはずだ。


 だから、せめてこれからの幽霊人生だけは後悔をせずに——否、後悔を活かそうと決意する。そして、その決意を老人の背中に呼びかけようとして、半田は思いとどまった。


 遠ざかっていく老人の背中。丸まっていて、小さなくて、半透明の背中なのに誰よりも中身が詰まっているように見えた。ふいに老人が片手を上げ、ひらひらと手を振った。それと同時に、老人の身体は徐々に色を失い始めた。


 半透明から、透明に近づいていく。やがて、老人の身体が見えなくなっても、半田は老人がいたはずの場所から目を逸らさずにいた。


 彼の二百年という長い人生の片鱗、その生き様を目に、心に焼き付けるように。いつまでも、いつまでも、見つめていた。

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