優しい十月の夜に

きんか

ハロウィン・リトル・プリンセス

 ハロウィン。それは夢と希望とお菓子に満ち溢れた子供の祭典。つまるところ、一年で一番お菓子をもらえる日であった。

 これはいつかの、どこでもない、けれどあったはずの日常風景。剪定される程の幸福もなく、ただ編纂されていくとめどない記憶のひとつ。もしも、もしも、ほんの少しでも彼女が笑顔でいられるなら。誰かがそう願うから、優しい奇跡は起こるだろう。それを紡ぐことで、全てが無かった事にはならないけれど。彼女の流した、どす黒い悲しみの雫が無かった事にはならないけれど。それでも――その杯が、本当に奇跡の器なら。

 こんな、何気ない平和があってもいいはずだ。




「ねえ、おかあさん」

 飾り気のない、けれど殺風景と言うには優しすぎる空気が漂う一室で。まるで服の体を成していないほど露出の多い少女が、猫のような目をぐっと近付けて少年に問うた。呼称と性別はまるで乖離していたけれど、それは大したことではないだろう。大切なのは、少年が彼女を大切に想っているということと、彼女は少年をそうだと信じて疑わないということだ。

「なに、ジャック?」

 きゅっと白いシーツを握り、ジャックと呼ばれた少女は俯きがちに呟いた。

「べつに……なんでもないや」

「ん、そうか」

 少年もまた呟き返すと、もう何度目かも分からない雑誌のページを繰る。お互いに、行為に意味を求めてなどいなかった。ただお互いの存在を近くに感じていられるからそうしているだけ。それは空しさや見せかけの親愛とは遠くかけ離れた、本当の触れ合いであるようにも思える。

「……ね、おかあさん?」

 もう一度、少女は繰り返す。何かとても大切なものを確かめるように、何かとても温かいものを噛み締めるように。

「なにさ、ジャック」

 少年の返事はまるで芯の無い気の抜けたものだったが、ジャックは満足したように彼にもたれかかって囁いた。

「なんでもなーい」

「はいはい、なんでもないのな」

 ふわりと甘い香りが少年の鼻孔をくすぐる。実のところ、ジャックが自分の部屋に来てからずっとその香りがしていたから――特に口には出さなかったが、ちらりとカレンダーを見て彼は一人で納得していた。さぞかしこの少女は皆の目にとまったことだろう。世話好きな面々や、厨房に入り浸る顔ぶれが瞼の裏に浮かぶようだ。知らずに頬が緩む。

 ふと少女を見やると、ほんの少しその顔には陰りがあった。何かを思い悩むように眉が寄せられ、年相応の愛らしさを漂わせる。一瞬、脳裏をよぎったのは古い新聞記事。一面にでかでかと記されたその名は――「すごいだろ、ライブラリの奥にあったんだぜ。産業革命期のロンドン……まさに、霧の魔都さ」――いや、それが何だと言うのだろう?今、目の前で何かを考えあぐねている少女の心とは、何の関係もないことだ。

 とはいえ、そういう時は自分から言い出すのを待つべきだ。ゆっくり考える時間があるのだから、そうするのが一番良い。自分なら、そうして出した結論こそ告げるに相応しいと思う。下手に介入されると、余計に言いづらくなることもあるものだ。

 また一枚、来た道を戻る。同じ写真に同じ文字、けれど不思議と飽きる事は無かった。




 ぺらりとページがめくられる。その音が少しだけ、ジャックの焦りを掻き立てていた。どうしよう――ただ、渡したいだけなのに。何故だか言い出すのがこわい。何にも怖い事なんてないと分かっているのに、なんとなく躊躇してしまう。優しさに甘え切って、ぐだぐだと渡すのではいけない気がするのだ――どうしよう。何かを入れて歪な形に膨らんだポケットをそれとなく触り、また少しだけ焦る。わたしたちは、どうしたら。




時を遡ること数時間、ハロウィンに沸き立つカルデアを歩き回っていた少女たちはすっかり焼き菓子の匂いに馴染んでしまっていた。

「うーん、とってもいい香り!これじゃ私、お菓子の家の住人みたいだわ!」

「お菓子だけじゃいけませんよ、きちんと食事のバランスを……」

「…こわーい歯医者さんもいるし、少し自重した方がいいのかしら」

 わいわい賑やかな二人をよそに、ジャックはぼんやり考え事をしていた。たくさんお菓子をもらったけれど、お菓子をもらえるのは子供だけなのではないか。なら、おかあさんはお菓子をもらったのだろうか?人気者のおかあさんのことだから、まるきり貰っていないなんて事は無いだろうけれど――そう思った時、ほんの少し胸の奥がちくりと痛んだ。

「ジャック?どうしたの?」

「む、虫歯ですか?それは大変ですよ、あのドリルみたいな剣でぎゅーんと……」

「……わたしたち、ちょっとあっちに行ってるね」

 ふらりと姿を消したジャックに、少女二人が首をかしげる。まあ、何か思うところがあるのだろう――元より、一緒にいなければいけないこともない。それより二人は目先のお菓子に夢中だった。赤い外套を翻し、カルデア中にお菓子を配り歩くお兄さんがいるのだから!まるでサンタクロースだわ、と思いつつも――それは、少女たちにとってとても抗いがたい誘惑だったのだ。




「む?どうしたのだワン?お菓子なら先ほど、アイツがまとめてもっていったのだぞ」

 ふらふらと厨房に入ったジャックは、キャットに声をかけられた。キッチンはあらかた片付けられ、僅かに残った材料と思しき生地が片隅に置かれているだけだ。

「……あのね、おかあさんは?おかあさんはおかあさんだけど、お菓子もらえるのかな?」

 む、としかめつらをするキャット。

「狂化したアタシの脳にも分かるように言ってほしいのだが、アレだな?ご主人にお菓子はあるのか、ということだな?」

 ん、とジャックが頷くと、キャットはほんのわずかに考えこみ――

「……そうだな、実はまだなのだ!ニンジンの入れどころに迷ううち、ついつい後回しにしていたのだワン!」

 と言いつつ、こっそりとエプロンのポケットへ何かをしまい込むキャット。それには気付かず、ジャックは目を輝かせて言った。

「じゃあ、わたしたちにもやらせて!きっと上手に作るから!」

 隠しきれない喜びと、ほんのわずかな安堵。それまで感じていた、ちくちくという不安はすっかり無くなっていた。その正体にも気付くことなく、ジャックが意気揚々と生地に手を伸ばした時、

「おい、子供たちの分は配り終えた――次はマス」

「せいやぁ!」

 空のバスケットを持った赤い外套のアーチャーが言い終えるより速く、投擲された小さな袋がその口を射抜く。思いがけない強襲に目を白黒させるアーチャーに、キャットはしっと指を立てて見せた。投げ込まれた袋が、本来マスターの口に入るはずのお菓子を詰めたものだと感づいたアーチャーは――

「………そうだな、まだ早かったか。オレはその………、もう一周してくる」

 やや不満げにしながらも厨房を出て行く後ろ姿を見送りながら、キャットは必死に背伸びする少女を抱え上げてみせた。

「ほれ、これなら動きやすかろう」

「わ、すごーい!」

「ニャハハ、バーサーカーの腕力を以ってすれば容易いことだウサ!」

 猫なのかウサギなのか、それともやっぱり狐なのか。目の前に広がる自由なキャンパスを前に、少女にとっては些細な疑問だった。




 上手くできた、とは言い難いかもしれない。多少の手伝いこそあれ、少女にとってはまるで未知の体験だったからだ。それでも――

「ジャック」

「な、なに?」

 不意に名前を呼ばれて、びくりと返事をするジャック。その頭に手を置いて、少年は――ジャックのマスターは、にこっと笑んだ。

「…なんでもないよ、ジャック」

 次の瞬間、気付けばジャックは不格好な小包を差し出して、口走っていた。

「おかあさんに、あげる!わたしたちからの、プレゼント!」

 面食らって目を瞬かせるその顔が、ジャックの中の喜びをかき立てた。やっぱり、わたしたちが一番最初なんだ!

「あんまり、上手にはできなかったけど……たぶん、食べられるよ」

 同時に、気恥ずかしさも込み上げてくる。あんなに悩んでいたのがバカらしい、思い切って渡すだけだったのに!

「あのう……ハロウィン、だからね、おかあさんはおかあさんだけど、あげる!」




 無償の奉仕、対価のない献身など有り得ないと人は言う。無償の愛、対価のない愛情など、存在しないのだと。それで言えば、お菓子であれ料理であれ、誰かの為に作るという行為は正しく偽善になってしまうだろう。食べれば無くなる、そして作る為には材料と時間が、有限のコストがかかるものだから。でも、有形のものへの対価が必ずしも有形であるとは限らないのだ。たとえば、お菓子を受け取る少女の笑顔が、彼にとっては何より大切で。たとえば、いつも見せるのとはまた別の真剣さを見せるその横顔が、彼女にとっては大切で。たとえば、どんなに不格好なものでも、笑顔で受け取って、

「ありがとう、ジャック。嬉しいよ」

 そう言ってくれるなら。

 ぞわ、と少女の中で暗い感情がうごめいた。還りたい。誰より大切であたたかいおかあさんに還りたい。ほんの少し――二度三度と手首を返せば、簡単に切り裂いてしまえるのに。

「――うん!どういたしまして、おかあさん!」

 どうしても、無垢な笑顔以外に返せるものはなかった。今まで知らなかった感情だから、ジャックにはそれに名前を付けることができない。自分の根源にある渇望よりも大切にしたいほどに温かい気持ちを持て余しながら、少女のハロウィンは更けて行く。

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