~基礎体力編~

物語をつむぐにもセンスが必要

 それは、こんな風にして始まりました。


 ある平日の午後。

 近所に巨大なショッピングモールがあって。その中に座席数800席以上の大きなフードコートがあって。そのフードコードのすみに、お水の出てくる蛇口じゃぐちがあります。横にはプラスチックのコップと紙のコップが山のように積んであって、誰でも自由に使えるようになっています。

 そこで、私は紙コップを使って、蛇口の前に立ってお水を飲んでいました。

 すると、突然こう話しかけられたんです。

「水の飲み方、かわいいね。両手でコップを持って」

 見ると、声のぬしはかなり年上の男性。

 私は驚いて「はい?」としか返せませんでした。

 すると、その人はこう続けました。

「青い服に、両手でコップを持って水を飲む姿。センスを感じる。絵になるよ」

 その日、私はこんに近い深い青色のジャケットを着ていました。あの人は、それをほめてくれたんです。しかも、お水を飲む姿がかわいいって。


 それから、私たちは近くのテーブル席に座ってふたりでお話をしました。

 何をしゃべったかはよく覚えていないのだけど、とにかくたくさんしゃべったのだけは覚えています。

 しばらくして会話が途切れたのち、あの人はこう切り出してきました。

「作家を育てたいと思ってるんだけど。小説家を。それも、二流や三流ではなく一流の小説家を」

「どういうことですか?」と私がたずねると、あの人はこう返してきました。

「君にはセンスがあるよ。服の着こなしから、水の飲み方まで全部。センスを感じる」

「センス?私に?」

「そう。物語をつむぐにもセンスが必要なんだ」

「物語にもセンスが必要」と、私は繰り返しました。

「そうだよ。もしかしたら、君の適正は小説にはないかもしれない。もっと全然違う分野。たとえば、イラストとかデザインとかそういう資質があるのかも。もしも、他の分野に才能があるとわかったら、その時は転向すればいい。道は途中で変えてもいいんだ。人にはそのくらいの自由は与えられている」

「そのくらいの自由は与えられている」と、また私は繰り返しました。

「でも、とりあえずやってみない?物語をつむぎ出す能力も必ず役に立つはずだから。何をするにもストーリーは必要。デザインにも作曲にもストーリーがなければならない。そうでなければつまらない」

「ストーリーか」と、私。

「そう、ストーリーだ」

 それからしばらく考えて、私はこう答えました。

「やってみます!私!小説、書いてみたいです!」

 いつもの私ならこんなことありえなかったでしょう。知らない男の人とふたりっきりになり、その人の言葉に乗ってしまうだなんて。でも、その日の私は何かが狂ってしまっていたのです。

 あるいは、ずっと待っていたのかもしれません。心の底でこんな日が来ることを。心の底に“安定”という名の不安が降り積もっていき、いつしかその不安を振り払ってくれる人が現れるのを待つようになっていたのかも。まるで、純真じゅんしん無垢むくな少女が、白馬の王子様の到来を待つように。

 いずれにしても、こう思ったことだけは覚えています。

「こんなチャンスは2度とはないかもしれない!きっと、これは運命なんだわ!」と。

 そして、私は「よろしくお願いします」と答え、あの人は「よっし!契約成立だ」と返してきたのでした。


 こうして、私たちは契約を結んだのです。

 その関係をなんて表現すればいいのかわからないのだけど。

「師匠と弟子」「編集者と作家の卵」みたいな感じでしょうか?

 でも、それだけでは表現しきれない不思議な関係。

 その関係はその瞬間から始まったのです。


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