幕間ー3

 猛烈な勢いの雨風がバルコニーから吹き込み、絹のカーテンを破りそうな勢いで跳ね上げた。真夜中の空はまた嵐となり、雷鳴が幾度となく轟く。

 応接室の扉の正面に飾られた女神ラムゼラの肖像画の前で、エールディヒは床に伏せた青い髪の女性を抱き起した。


「セシリアさま!」

「ああ……王子……」


 法衣を纏った美しいその女性は、細い声でそう応えると、咳込み、血を吐いた。彼女の法衣の胸の辺りから、赤い血がどくどくと溢れ出している。エールディヒは布で傷口を押さえようとしたが、あっという間に血で染まってしまう。


「誰か! 早く、セシリアさまが!」


 と戸口に向かってかれは叫んだが、


「む、むだです……まじょの、結界が……」


 と途切れがちな言葉を先の巫女姫セシリアは紡ぐ。


「魔女。どこに。何があったんです?!」


 ……時は夜半。ようやく大神殿まで駆け抜いたかれは、国の一大事なので、と夜番の神官を説き伏せ、既に就寝していた先の巫女姫、この神殿の神官長セシリアとの面会を叶えた。案内の者が応接室にかれを導き、扉が開いたとき、火がいれられた暖炉の前に佇む彼女の姿を、かれも案内の者も見た。

 だが、扉が外から閉められた途端。かれの目に見えたのは、灯りも消え、燻る暖炉の前に血を流して床に伏すセシリアの姿。最初に見たのは、魔道による幻覚だったのだ。


「そ……そこに……」


 震える指先が示した背後を振り向くと、まったく今まで気配もなかったのに、いつの間にかそこにはユーリッカが立っていた。


「どういうつもりだ。何故セシリアさまを!」

「あんたがその女を連れ出そうなんて思いつくからよ。こうなったのは、あんたのせいなんだからね」


 いまやユーリッカは、憎悪を隠そうともしない。日頃の慎ましやかで愛らしい巫女姫の姿はどこにもない。そこにいるのは、邪気を纏い、醜い笑いを浮かべた、緑の髪の魔女。


「その女は、神託を授かる力をあたしに渡したとは言えど、マーリアが魔女でない事を見抜く力は持っているわ。そしてあたしが邪神の力を得た事も。まあ、いずれは消えてもらわなきゃと思っていたけど、もっと自然な形にしようと思っていたのにね。こうなったのはあんたのせいよ、エールディヒ」

「ユー……リッカ。貴女は何故。信じられない……わたくしが育てた、可愛い……女神に選ばれしむすめが、こん、な」


 声を絞りだすように切なげに問いかけると、セシリアは力なくエールディヒの腕にぐったりと身体を預けて目を瞑る。このまま放置すれば彼女のいのちの火が燃え付きる事は、誰の目にも明らかだった。


「セシリアさま! どうかしっかり!」

「ふふ、無駄よ。邪神の力で攻撃したのだもの。背後からどーん、ってね。ラムゼラの神官には一番の毒だわ」

「その毒を、いったいどうして貴女は自ら飲んだのか、ユーリッカ!」


 エールディヒの問いに、ユーリッカの緑の瞳に冥い滾りが揺らぐ。


「どうして、ですって? こんな事になったのは、元々あなたのせいなのよ」

「なんだと! わたしが一体なにをしたと言うのだ!」

「あなたが」


 激しい雷鳴が、彼女がその先に口にした言葉をかき消してしまう。


「なんだ、もう一度言え!」

「あなたが。あなたがあたしよりマーリアを愛したからよ!!」

「なっ……」


 艶やかな目つきは、とても17歳の娘のものとは思えない。緑の髪の女がゆっくりと近づいてくるというのに、エールディヒの身体は鎖で縛られたように動かない。ただその銀の瞳を見開き、あり得ないものを見るような表情で、かつて清らかな巫女姫だったものを見つめていた。


「たしかに……わたしは、貴女からの求愛に応じなかった。可憐な貴女が勇気を振り絞った様子で仰ったことを、巫女姫という立場がおありなのだからそのような言動はお慎みなさい、と説教じみた事まで口にしてしまったわたしは心無かったかも知れないと、後から悔いもした。だが、もう二年も前の話。たったそれだけで? たかがその程度の恨みで、こんな事を仕出かしたというのか。……嘘だ」

「たかが、なんて言わないでよ。あの時のあたしは真剣だった。あなたさえ受け入れてくれれば、今のあたしはきっとなかったわ!」

「民の為に自らの身を削って祈り続ける貴女の事は尊敬していた。なのに、貴女は私情で邪神に走り、民を苦しめたと言うのか!」

「それは少し違うわね。邪神の助けを求めたのは、あたしの身を守る為にやった事よ」

「意味が解らない。それに、マーリアにはなんの関係もない! 彼女は兄上の婚約者ではないか」

「でも、あなたはあの子をずっと愛していた。どうにもならないから、一生独り身で、他の誰をも愛さないと決めていた」

「…………!」


 ユーリッカのことばを否定しないエールディヒから、つと視線を外し、彼女は細い腕を震わせる。


「マーリアが憎い……あなただけじゃない、あたしの欲しいものがぜんぶ、あの子に与えられた。あたしはただ、毎日お勤めばっかりで……無邪気に笑ってるあの子が、あの日から、憎くなった。そして、そんな自分も嫌になった……なにもうまくいかないこんな世界……女神はただ他人を救う力をくれるばかりで、あたしの為には何もしてくれないわ。だったらもう、あたしの幸せは、あたし自身で掴むしかないと思ったのよ」

「そんな身勝手な理由で……!」

「なにが身勝手なのよ。国の為にとあたしに犠牲を強いているのは王家や民の方じゃないの。邪神はあたしに必要な力をくれるわ。この力であたしは敬虔な女神の信徒、巫女姫を装いながら、この国を支配してやる……何を犠牲にしても」


「あの子……おかしいわ……女神に選ばれた頃のあの子じゃ、ない……巫女姫は、その使命を誇りに、喜びに感じるもの……」


 ユーリッカの言葉を耳にしたセシリアが、エールディヒの袖をつかみ、途切れ途切れに言う。


「うるさいわ、死に損ない。すぐに死なせてあげるけど」

「育ての親だろう! 何故そんな事が言える?!」

「……」

「何故、わたしの胸の内を知っている? 邪神の力でわたしのこころのうちを探ったのか」

「……いいえ……そんなものを使わなくたって、本気で恋をすれば判るのよ、それくらい」


 そう言うと、ユーリッカは、エールディヒの頬を撫でる。魔道の力に縛られたかれは、苦しげなセシリアを抱いたまま、動くことも出来なかった。ユーリッカは耳元に口を寄せ、囁きかけてくる。


「そうね。今からでも、あたしのものになると誓えば……マーリアの事も今の事も全てを忘れ、あたしを選ぶなら、あなたの事は助けてあげてもいいのよ」


 その手の凍るような冷たさに背筋を震わせながらも、侮辱を受けたと感じたエールディヒは怒りを抑えられず、


「馬鹿にするのもいい加減にしろ! 魔女に屈する事など出来るものか!」


 と叫ぶ。その言葉に、ユーリッカのひとみから滾りはふいと消える。濡れた睫毛を瞬かせると、代わって浮かぶのは、狂気。


「……ふっ。あっははは! まぁ、あんたはそう言うとは思ったわ。残念! 赤毛より、銀の髪の方が好みなんだけどね!」

「どういう意味だ。兄上にも手出しをする気か」

「あんたには関係ないわ。でも、解るでしょ? マーリアは、邪魔なのよ」

「マーリアは貴様を信じようとしていたというのに……」

「しかたないわよ。あの子を消さないと、あたしが破滅するもの」


 あっさりとそう言い捨てると。ユーリッカは屈み、真っ赤な唇をゆっくりとエールディヒのそれに押し当てる。口腔内に蛇が侵入したかのようなおぞましい感触に、かれは身震いした。


「いまのは、邪神のくちづけ。死の呪いよ。あなた、死ぬわ。そしてマーリアも助からない」

「わたしに恨みがあるなら、わたしだけを殺せばいいではないか!」

「いいえ、魔女の存在は必要なのよ……愚かな民、愚かな王たちにとって」


 ユーリッカは立ち上がり、再び妖艶に笑む。背後を、稲光が走った。


「あんたには、神官長殺しの罪を被って貰いましょう。あんたは愛するマーリアの首を刎ねたその剣で、今度は副団長から処刑される事になるのよ!」


 彼女の中から、忌まわしい邪神の力が膨れ上がる。


「あーははは、面白いぃ! 最高のシナリオだわぁ!」


 膨れた魔力がエールディヒとセシリアを襲う……いかに剣技に秀でようと、回避する事は不可能だった。

 穢れた魔道の光が薄れると……そこには倒れ伏す二人の姿が見え、魔女は再び笑みを漏らす。

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